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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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實雅のふるさとの寺~相応寺

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 相応寺は、前ケ岳に創建され、その後亀山に移り、現在地である玉井南町に移ってきたといわれている。
 「大玉まるごと百選」では、その移動については、次のように紹介する。
 眉岳にあること650年、その後度重なる火災に遭い、宝暦4年(1452)玉井亀山に再建され、修験道当山派の拠点となった。ここにあること100年あまりの後、永禄3年(1560)現在の南町に移された。



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 寺伝による相応寺の移動は、大同2(807)年、安達太良眉岳(まゆだけ)(前ケ岳)に建立されたのを端緒とするが、高山のため野火が防げず度々炎上したといい、その後堂宇の荒廃に伴って玉井亀山に移り、永禄3(1560)年に現在地に移ったとされる。

 この二つを合わせて整理する。

 大同2(807)年、安達太良眉岳(まゆだけ)(前ケ岳)に建立される。
 ここに、650年あったが、たびたび野火に逢うが鉱山のため高山のため防ぐことができずに、度々炎上し、堂宇が荒廃した。
 宝暦4年(1452)玉井亀山に再建され、修験道当山派の拠点となった。
 ここには100年ほどあった。
 その後、永禄3(1560)年に現在地であるに玉井南町移ったとされる。

 實雅を整理する。

元禄13(1700)年3月12日に観音院に入院
享保 6(1721)年に隠居。
享保11(1726)年に、真言八祖像が安置。實雅も功績を称えられ實雅像造立。
享保20(1735)年11月27日の示寂とある。

 照らし合わせてみると、 實雅が、相応寺の根本寺である恵日寺に向かうのは、相応寺が現在地に移動してきてからのできごとであることが分かる。宗派は真言宗ということになる。


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 徳一伝承を伝える相応寺の縁起を目にし、その根本寺である慧日寺を預かることになったときには大きな志をもったことだろう。その志を膨らませるのに目にしたのは、この寺の徳一の像であり、創建当初からの本尊である薬師堂の薬師如来ではなかっただろうかと想像する。

 この時すでに慧日寺は荒廃していて見る影もなかったのだが、荒廃から寺を復活させる志の強さを、ここで培っているということを思い描く。





「大玉まるごと百選」の紹介概要

 「大玉まるごと百選」で、相応寺は平安時代のはじめ、徳一大師が開いたと伝えられる真言宗の寺院であるとしている。徳一大師と薬師如来についての伝説を紹介し、この像を眉岳(前岳)に運び、道宇を建てて如来を安置し、安達太良相応寺と号したとして、以下のように紹介を続ける。
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 眉岳にあること650年、その後度重なる火災に遭い、宝暦4年(1452)玉井亀山に再建され、修験道当山派の拠点となった。ここにあること100年あまりの後、永禄3年(1560)現在の南町に移された。本堂の左に建つ薬師堂内安置されている薬師如来は、亀山の元相応寺から移った岳山湯前薬師といわれる。薬師如来の左右には脇仏の日光・月光菩薩が立ち、両側に12神将が配されている。

Commented at 2008-08-26 07:32 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by shingen1948 at 2008-08-28 05:20
 そう考えても、いくつかの情報から矛盾はないようですね。

 共同で防御が機能するシステムになってからは、心配は無いようです。
 今まで単純に散歩していた所が、近頃絡み合ってきて新たな発見があって、(自分の頭の中の世界だけで)そちらに夢中になっているところがあります。遅れるのはそのためです。

 御開帳の情報ありがとうございます。
by shingen1948 | 2008-08-26 05:14 | ◎ 信仰と文化 | Comments(2)