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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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恵日寺⑦~中興の意義を整理してみる

 恵日寺の表記の説明などから、明治時代の廃仏毀釈によって一時廃寺となった寺を復興したことを、現時点のスタート地点に考えているようだ。それは、それでよいのだが、江戸中期に、荒廃した恵日寺を實雅が再興した時点を出発点とする見方もありそうだ。

 この復興で築き上げた恵日寺の力がなければ、明治時代に公的な命令によって断絶した寺を復興することはできなかったはずだからだ。勿論、その復興がもとになって、今日の恵日寺のスタートであり、会津仏教文化副玄のスタートである徳一が創建とした寺の再現が形になったということと重なる。
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 その見方でいくと、現在の本堂や山門は、江戸時代中期の恵日寺再興のシンボルとして整理しなおすのがいい。實雅は、元禄13(1700)年3月12日に観音院に入院し、享保6(1721)年に隠居したとのことだから、元禄15年(1703)に建立されたこの本堂は、彼が入院して3年目の事業ということになる。それが、現在まで受け継がれているということだ。

 磐梯神社に受け継がれた巫女舞の原点である児之舞も原点は、この時点にあるらしい。


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 この仁王門は、實雅が江戸中期に恵日寺を再興した後、栄えていく過程の中で、江戸時代後期に建立されたものということになる。



仁王門
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この仁王門は当初どの場所にあったのかわかりませんが、江戸時代後期に慧日寺の仁王門として建立されたと考えられます。明治5年(1872)に薬師堂と鐘楼が焼失した際に難をまぬがれ、現在までに三たび移築されました。
 通路の左右の土間には平らな石を据え、江戸時代中期作の仁王像を安置しています。
 昭和45年(1970)に修理が行われた時、柱の足元を切り縮めたため、全体の高さなど当初の状況は明らかではありません。しかし、仁王門としては比較的平面規模が大きく、木柄が太い独特の特徴をもっていることから、近世の恵日寺を解明する重要な建造物となっています。



 a0087378_53433100.jpgとりあえず、左側の仁王さまを


 そして、この後、明治政府によって一時廃寺にされた寺を復興し、現在の恵日寺に繋がっているという再興の見方で整理しなおしてみた。
by shingen1948 | 2008-08-23 05:40 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)