地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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恵日寺⑥~相応寺にかかわって

 散策していると、思わぬところで、思ってもいなかった身近なものとのかかわりを発見し、驚くことがある。 

 福島民友「慧日寺を支えた人々實雅」の中に、「荒廃立て直した中輿の祖」として56世の實雅という方が紹介されているが、二本松領玉井邑(大玉村玉井地区)相応寺の出身であるというのだ。
  そして、慧日寺での実績については、「慧日寺を支えた人々實雅」で紹介されるのだが、その上では、相応寺について紹介されていたのだ。
 現在も元の相応寺の調査に山に入っている方がいらっしゃるらしいが、それは地元の方ではないらしい。
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 この墓は、徳一廟の東側にあるとのことだが、今回意図的に見ていなかった。
 確かに徳一廟の周りは、代々の寺の住職の方々の供養塔らしい。東側から撮影したものだが、大きめの供養碑だろうか。


 今回意図的に撮影していたのは、今与供養塔だ。
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 周りを見回すと、特徴のある石塔だったが、案内板は建っていなかった。磐梯町のホームページで、「今与供養塔」らしいことを確かめた。

 説明によると、徳一の跡を継いだ2代目の慧日寺の住職今与の供養塔らしい。このころまでは、まだ隆盛を誇っていたようだ。
 説明は、衰退していく節目についての案内と、宗派の経緯と続く。


 徳一没後、慧日寺は、今与(金耀)が跡を継いだといわれ、その後も平安時代を通して隆盛を誇りました。
 しかし、平安末の源平合戦には、平家に味方したため、急激に衰退し、更に中世末には、伊達勢の会津侵入の折に堂宇は灰燼(かいじん)に帰したと伝えられます。
江戸時代には、会津藩の保護によりわずかに宝燈を守っていたが、明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によりついに廃寺となりました。
 しかし、地元住民の切なる願いにより、明治37年に恵日寺の寺号が復興され現在に至っています。
 なお、文献などによれば、宗派も法相(ほっそう)宗~天台宗そして現在の真言宗になったようです。

by shingen1948 | 2008-08-21 20:14 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)