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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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慧日寺④の勢力~乗丹坊墓塔

 寺を信仰という側面でイメージするが、戦力としての側面もあるようだ。
 先に伊達政宗の「会津への道」の足跡をたどって、猪苗代から磐梯町にかけて散策したが、この慧日寺の衰退の一因になっているのが、伊達政宗の侵攻によるたび重なる戦禍という。
 しかし、攻撃を加えている立場からは、一つの兵力あるいは軍事的な拠点に見えるという側面もあることを整理しておく。

 「慧日寺跡」の案内板に次のように説明されている部分だ。
 平安時代の中頃には最も興隆をきわめ、その勢力は寺僧300・僧兵数1000・子院3800坊にものぼり、支配権は、会津はもとより新潟の一部まで及んだと言われます。

 葦名氏の庇護を受けた慧日寺には兵力があり、摺上原の戦いでは戦いの対象となり得るという側面があるではないかと思えるようだ。この時点での兵力は定かではないが、隆盛を極めた時代の兵力に関しては、乗丹坊墓塔の案内板にその説明がある。
 兵力が分かるのは、次の部分だ。
 乗丹坊は慧日寺全盛期の衆徒頭で、平安時代末期には、僧兵数1000人を動員する勢力があったといわれています。
 養和元年(1181)6月平氏の命を受け、越後の豪族城氏と共に木曽義仲を追討するため、会津四郡の兵を率いて出陣しました……

 敗北と衰退については、次のように説明する。
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 (乗丹坊は、)信州横田川原(現在の長野県篠ノ井付近)の合戦で敗れて討死しました。彼の死によって会津恵日寺の勢力は大きな打撃を受け、次第に衰退の一途をたどっていきます。この合戦の様子は「平家物語」などに見ることができます。



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 乗丹坊の墓は、この写真の右手にあって案内板はその説明をしている。






 乗丹坊墓塔案内板説明内容

 乗丹坊墓塔
 磐梯町指定文化財第4号
 昭和53年9月25日指定
 この宝筺印塔は乗丹坊の墓と伝えられています。
 乗丹坊は慧日寺全盛期の衆徒頭で、平安時代末期には、僧兵数千人を動員する勢力があったといわれています。
 養和元年(1181)6月平氏の命を受け、越後の豪族城氏と共に木曽義仲を追討するため、会津四郡の兵を率いて出陣しましたが、信州横田川原(現在の長野県篠ノ井付近)の合戦で敗れて討死しました。彼の死によって会津恵日寺の勢力は大きな打撃を受け、次第に衰退の一途をたどっていきます。この合戦の様子は「平家物語」などに見ることができます。
 この宝筺印塔は高さ2.7m、台石には美しい形の格狭間を表し、塔身の四面には薬研掘りによる梵字が刻まれ、笠はやや歪んでいるものの隅飾り突起が直立に近く古い形式を残しています。
 全体として地方色が強く、中世後期に建てられた供養塔と思われます。
 平成7年9月
 文化庁 
 磐梯町教育委員会

by shingen1948 | 2008-08-19 04:43 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)