地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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恵日寺③と山岳信仰~不動院龍宝寺不動堂案内から

 恵日寺山門前の「慧日寺跡」の案内版に、山岳信仰とのかかわりについては、以下のようにふれている。
 慧日寺は徳一大師によって平安時代初めに開かれた寺で、磐梯山を中心に栄えたのは会津の山々を背景とする山岳信仰と祖霊崇拝の土壌があったからだと思われます。

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 この地区の山岳信仰については、不動院龍宝寺不動堂の案内板に、不動院龍宝寺不動堂の説明の前段に説明されていた。



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 会津地方における修験道の広まりは、慧日寺創建より古いといわれ、大伴家が大寺修験の指導者として盛衰を繰り返しながら続いてきました。そのため、磐梯修験は大伴修験とも称されました。「新編会津風土記」には磐梯山・厩獄山の他に吾妻山修験を掛け持ち、猪苗代成就院と共に活動していたことが記載されています。

 そして、案内板は龍宝寺の沿革と、吾妻山とのかかわりにつての説明が続く。

 先に、このことに関して、『山岳宗教と恵日寺、そして廃寺②』として、「会津恵日寺」の記述を整理していた。
 恵日寺が、磐梯修験の中心として、盛況を見たのは確かなようだが、これは鎌倉から室町初期にかけてであり、寺としては衰退期に入っていることが分かる。一部の伽藍は礎石を残すのみという状態になっている時だったとの記載になっている。
 不動院が会津の修験としては権威を持っていたようだ。その頃に、恵日寺も毎年数日間参籠し読経を行ない、磐梯吾妻の修行に活躍した跡が見えるという。吾妻参拝には、二つの寺の証文があり、成就院は酸川野口、恵日寺は小野川口持分で、山先達の役割としていたということのようだ。

 これは、「高湯温泉400年史」で吾妻山側から山岳宗教を見たとき、恵日寺と山岳宗教のかかわりを知ることの大切さにについて述べているのを受けて整理してみたものだ。
 そこでは、恵日寺が創建された大同2年(807)よりも少なくとも59年さかのぼる天平時代に、恵日寺が創建された辺りに磐梯修験の大伴家が居を構え、磐梯山ばかりでなく、吾妻山まで勢力圏に入っていたとしていた。
 また、法相宗も自然智宗が根本にあって山で呪力を身につけようという点では同じであり、
先駆けとして、大伴家が山に入り、そこを拠点に恵日寺が建立されたとし、民間信仰の山を仏教の山にするために仲立ちをしたのではないかとしていた。

 山岳宗教は、慧日寺創建の先駆けとしても影響があっただけでなく、長い寺の歴史の中では、融合というかかわりのがあったと受けとめられるということのようだと思う。



不動院龍宝寺不動堂案内板説明内容

 不動院龍宝寺不動堂
 磐梯町指定文化財第6号
 昭和53年9月25日指定
 会津地方における修験道の広まりは、慧日寺創建より古いといわれ、大伴家が大寺修験の指導者として盛衰を繰り返しながら続いてきました。そのため、磐梯修験は大伴修験とも称されました。「新編会津風土記」には磐梯山・厩獄山の他に吾妻山修験を掛け持ち、猪苗代成就院と共に活動していたことが記載されています。
 龍宝寺は永正18年(1521)九州彦山の中津郡より彦山流の伝灯を受け、寺号を「磐梯山不動院龍宝寺」と称しました。宝永年中(1704~1710)になると大寺修験の勢力圏は猪苗代領にあり、大伴修験は成就院の支配下に入りました。
大伴修験はその後彦山流から京都聖護院に移り「不動院」を「龍宝院」と改め「磐梯山龍宝院」と称しました。
 現在の龍宝寺は修験不動尊として約180年前の再建といわれ、桁行、梁間とも三間の入母家造りで、磐梯山修験の祈願所となっています。
 平成8年11月
 文化庁
 磐梯町教育委員会
by shingen1948 | 2008-08-18 05:00 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)