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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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二本松城址⑧~玉井城とかかわって

二本松城址を歩きながら、確認したいことを検索していて、平成18年に「しあわせ二本松メールマガジン」が、シリーズで二本松城址関係を連載しているのを見つけた。
その中で平成18年11月20日に配信されたこのシリーズの第11回「にほんまつの城あと ~安達地区の城館~」(田子屋館)に気になるところがあった。
歴史的に見ますと、二本松城主畠山義継の家臣であった遊佐丹波守・下総守の居城でした。それが、天正13年(1585)伊達政宗の攻撃に備えて、本宮・渋川・玉井の兵を二本松城に集中した時、空同然になった田子屋館は政宗家臣の伊達成実によって占領されました。
記録によると、同年12月に家臣が鉄砲の火薬箱に火を落としたために全焼し、成実も火傷したとされています。
また、翌年1月畠山家臣の鹿子田左衛門が奪回すべく攻めたものの、追い返されたことも記されています。
成実の後は、その家臣である遊佐藤右衛門の子・新右衛門の居城であったといわれています。さらに、二本松が会津領蒲生氏の支配下の時には、野田正勝の居館であったことが『積達館基考』に記されています。

奪回すべく攻めたとある鹿子田氏は、本宮城とのかかわりで気になるが、もっと気になるのが玉井氏の記載だ。
天正13年(1585)伊達政宗の二本松城攻撃時には、二本松城に詰めていたということだ。

先に、玉井氏の興亡に関して想像したことがあった。それを「玉井氏を滅ぼしたのは田村氏か」としてまとめておいた。
  天文16六年(1546)二月、田村隆顕は畠山義氏・石橋尚義とともに安積郡に侵攻して十ヶ城を落とし、玉井城(安積郡大玉村)を自落させた。同年十二月、岩城勢が田村郡小野地方に侵攻してきた。
天文19年(1550)六月、田村隆顕は安積郡に於いて芦名盛氏と戦い敗れた。このため翌 20年(1551)七月、田村隆顕は畠山尚国・白河晴綱の仲介で芦名盛氏と和睦した。

ここに、天正13年(1585)玉井氏は伊達政宗の二本松城攻撃時に、二本松城を守っていたということを付け加える。すると、天文16年(1546)の自落とは、畠山氏の傘下に入ったということでしかないということが分かる。
玉井氏が落ちるのは、二本松城が落城し畠山氏が会津の芦名氏を頼って会津に逃れることや、その芦名氏も伊達政宗に敗れ、佐竹氏を頼って逃れるという一連の「会津への道(伊達政宗)」にかかわっているということになる。

 玉井地域の歴史に詳しい方が、大山地区に比べて玉井氏と会津とのかかわりを強調されることや、安達での伊達政宗の一連の戦いの中で、玉井氏は滅んだと強調されることに合点がいく。
  なお、人取り橋の戦いの折には、玉井城からは伊達氏側の白石氏が500騎を引き連れて入り、ここから戦場に出かけている。この時に玉井氏は、戦い敗れたのか、会津に逃れたのかは分からない。
 本宮氏や高玉氏の消息は、伊達氏に家臣としてついていったらしいことが分かっている。新城氏は、その後の経緯は分からないが、現在の会津の酒屋さんとつながることから、畠山氏と共に会津の芦名氏を頼ったことが想像できる。
 その点、玉井氏の動向は分からない。しかし、地域の歴史家が、会津とのつながりを強調することなどから、城を明け渡したのではなかろうかと想像する。伊達氏に寝返ったということはなさそうだと思うが、その後は見当たらない。 
by shingen1948 | 2008-08-11 07:04 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)