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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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二本松城址⑤~本宮舘

 中世の二本松城は、本城と馬蹄形の稜線上に防御施設を設けているのが特徴のようである。
 案内板の説明は、丹羽氏時代のものが中心だが、○○舘と記載されているのは、山城時代の出城を表しているらしい。これらの各出城が連携してこの城を防御するシステムだったらしい。
 案内板には、本城・新城館・松森舘・本宮舘が小さく記載されている。乙森にも舘があったということなので、これを合わせると4つの出城が紹介されていることになる。
 このうち、新城舘・乙森については先に整理したが、新城館の最後の館主は当時の二本松城主畠山氏の親族の新城弾正であることを付け加えておく。
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 今回は、駐車場から本宮舘に向かってみることにした。


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 散策道は急な勾配の坂を登るため、茶屋のある平場まではつづら折れになっている。
 茶屋で振り返ってみる。


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館に向かうという観点から、最初の平場は茶屋である。案内板があって説明されているが、今回は山城の平場の位置を確認する目印としておく。


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 次の平場は、不老庵が建っている。この建物の役割は分からないし、この平場が歴史的な平場なのか、この建物を建てるために平場にしたのかはわからない。


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本宮舘へは、その脇にある道を登っていく。


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直ぐに、平場に着く。ここが、本宮舘ということらしい。この館主についての情報は持ち合わせていないし、案内もないが、本宮氏であろうことは想像する。


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この平場は、丹羽神社へと続くが、その左手に祠がある。この館主の屋敷神とのかかわりがあるのだろうか。


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 その南側には、空堀らしきものが走っている。


 ここから右側の低地に降りれば、笠松や吾妻屋のある平場になり、そこから新城舘に続く道となる。ここからは、そのコースをもう一度歩いてみる。
Commented at 2008-08-09 06:56 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by shingen1948 at 2008-08-11 18:42
 私も現在進行形で確かめながらの散策ですので、不確実です。
 しかし、高倉城については、「相生集」に「二本松没落ののち近江守遂に伊達家に降帰す」とありますので、逃げたのではなく敗れて、家来になってついていったのだと思います。
 本宮氏は、国詮二男の満詮のことで、鹿子田氏のことであり、もちろん関係があると思います。
Commented by shingen1948 at 2008-08-13 06:16
 本宮氏のことですが、ちょっと混乱していましたが、整理がつきました。
 二本松城築城が応永21年(1414)で、その頃に満詮が本宮殿(鹿子田)と号します。
 天文の乱で本宮宗頼が城を放棄して岩城に逃げるのが、天文15年(1546)です。
 ですから、二本松城内の本宮舘がこことかかわっていても矛盾はないようです。
Commented at 2008-08-17 07:03 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
by shingen1948 | 2008-08-08 04:27 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(4)