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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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二本松城址④~権現丸

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本丸の城跡の一部といわれているところから降りていき、二重城壁を見て更に下ったところが、権現丸ということになる。


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 この平場に井戸がある。この井戸が「とっくり井戸」ということで、その案内板がある。この井戸を考慮して、ここに武家屋敷を配置したらしい。この井戸の石垣が、先の二重城壁と同じような積み方であることのようだ。近世の遺構ということになる。


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 この案内板には、もう一つの情報があって、権現広場である可能性について説明されている。仏具と考えられる銅製の碗の出土をその根拠としている。


案内板では以下のように説明している。


二本松城址「とっくり井戸」
この井戸は、昭和15年(1940)頃には「とっくり井戸」として知られていましたが、近年ではその正確な場所はわからなくなっていました。平成12年度の発掘調査によって再発見し、直径約92㎝、深さ約7.95㎝を測る自然石で築いた石組みの井戸であることがわかりました。深さ3.95mのあたりからしだいに広がり、底径1.4mの井戸底に達していて、この形状から「とっくり井戸」と呼ばれていたものと思われます。この井戸は急傾斜地であった平場を盛り土して平坦面を整地した際に、並行して積み上げたものであることがわかり、水の確保も考慮して計画的に城郭構築を行っていたと考えられます。時期は石の積み方が平場東側上段に残っている「本丸直下二段石垣」に類似していることから、慶長期(1596~1614)のものと考えられます。また、発掘調査の結果から平場北側より仏具と考えられる銅製の碗が出土していることから、畠山氏が熊野権現を祀った「権現丸」と呼ばれる場所であった可能性が高まるとともに、この平場は中世時代の畠山氏が権現丸として利用した時期(1441~1586)と、大規模な土木工事により侍屋敷として整備した慶長期との2期の変遷を確認することができました。
平成18年3月
二本松教育委員会 



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この権現丸の平場は、搦め手門の西の平場でもある。


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ここから、西に向かって降りていく道がある。ここまで散策してみると、たどってきた道が、大手からの道と考える見方もできなくはないとも勝手に思ってしまう。

  この城が、少年隊の悲劇を中心とした戊辰戦争を観光資源にしていることが、一つの特色だが、目立たないが、地道に発掘調査の成果をもとにして整備を進めているのももう一つの特色だ。
なお、丹羽氏が入部してからは、本丸は象徴としての存在である。ほとんど機能していなかった訳だが、地形的な弱点である西側には、大隣寺・龍泉寺を配置して、防御力を補う形にしたともいわれている。
by shingen1948 | 2008-08-06 04:18 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)