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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

二本松城址③~本城から


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 搦手門から本城へは、裏側からの入城になるが、移し替えられた二本松城址の石碑が迎えてくれる。
 この本城部分は、近世大名になって山城としての機能はなくなっているが、象徴としての本丸として体裁を整える整備がなされている。復元された天主の石垣もその一つである。


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 これは、乙森駐車場から本城を見上げたところだが、乙森というのは、本城が甲の森であるのに対して名づけられたらしい。
 本城は施設としては櫓程度しかなく、戦闘時の指揮をとる場所としての機能であったらしい。居城の機能があったらしいのはこの乙森らしい。
 現在、案内板に従って本城をめざせば、手前の石段を登ってくることになる。二の丸で井戸を見て、蒲生時代の石積みを左手に見ながらここに繋がる。

 この乙森にある案内板には、目立たないが新城・本宮・松森の3つの舘名が記載されている。これは、この城が本城の指揮のもとに、これらの館が出城としての役割を果たすという仕組みを意味するらしい。
 新城舘の案内板の説明の中に、西の舘と東の舘という説明があった。西の舘は新城舘であるが、東の舘がはっきりしなかったが、それはこの乙森か松森らしいと勝手に思う。


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 本城からの降り口は、乙森から車道になっている西へ向かう道と、直ぐに北に折れる道がある。この写真はその北に折れる道から本城を見ているのだが、この道を降りていくと、松森舘に向かう道がある。


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 もう一つ、南西に降りる道がある。ここから右に折れて降りると、直ぐに北に向かって折れる道になる。そのまま降りると平場に出る。


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 途中に、二重城壁がある。これは、近世になっての修復だ。案内板では以下のように説明する。


天守台下西面二段石垣
 この石垣は、以前から一部が露出していました。平成6年11月、本丸石垣修築復元工事と合わせて発掘調査を実施したところ、全体の姿が確認できました。
 石垣は、斜面上に上・下の二段で構築され、上・下段ともに天端左側の一部分が欠落していました。築石は野面石(自然石)を主体とし、一部荒割石が用いられ、その積み方は古式の「穴太積み」と呼ばれる特徴的な石垣です。大小の石材をレンガをねかせるように横積みし、数石しか横目地の通らないいわゆる「布積み崩し」の積み方です。
 上段石垣:基底部幅約9.6m天端部幅約8.8m高さ約3.5mノリ長約4.3m勾配約7分1里(約55度)
 下段石垣:基底部幅約11.3m天端部幅約9.9m高さ約3.9mノリ長約4.5m勾配約5分8里(約60度)

 上段と下段の間には、幅約1.6mの犬走り状のテラスで構成されています。
 天守台を意識して築かれた、二本松城最古の石垣です。


 その道を降りると、井戸のある平場になる。ここは権現広場である可能性のことである。この平場は、搦め手門の西につながる平場でもある。
 ここから、西に向かって降りていく道があるが、散策してみると、ここが大手からの道と想像できなくもないと勝手に思ってしまう。

 本丸部分は、近世にはほとんど機能していなかった訳だが、象徴とするための修復が行われたり、地形的な弱点である西側に大隣寺・龍泉寺を配置したりして、防御力を補う体裁を整えたりしているようだ。
by shingen1948 | 2008-08-04 05:16 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)