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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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二本松城址②~「搦手門から」

 二本松城址は、山城部分と平城部分があって全体像がつかみ難い。特に、中世からの歴史を持つ山城部分についての説明が少ない。
 これは、この城が戊辰戦争による悲惨な落城が有名で、その中心は近世になって開発された山麓の平城部分の物語が中心にイメージされていることもあるだろうと思う。
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 散策でこの山城のイメージを確認するのに、南側から本城に向ってみる。山城としてはこちら側が防御的には弱いということになるのだろうが、その分、散策しやすいということでもある。

道路のなかほどに、登り口がある。



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  そこを登っていくと、すぐ搦手門にたどりつく。


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城の正面を大手門というのに対して、裏手の門ということだ。案内板の説明によると、平成13年の調査で、現存する礎石のやや南側に、掘立柱の冠木門が見つかり、これは蒲生時代の門であると推定しているようだ。現存する礎石は、寛永初期に加藤氏が据えた門跡で、当時のままとのことだ。この門は、高麗門であった可能性が高いとしている。この建て替え時に、両側に門台石坦が築かれたという。

二本松城址「搦手門」
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この場所は近世の搦手門があった場所です。城の正面を大手と呼ぶのに対して、裏手を搦手と呼びます。
 平成13年度発掘調査の結果、新旧2時期の門跡が確認されました。
 第一期は掘立柱の冠木門(冠木と呼ぶ横木を2本の門柱の上方につらぬき渡してある門で、屋根はない。)で、現存する礎石のやや南側で発見されました。直径30㎝ほどの柱の根元が現存しており、栗材と鑑定されました。この柱根は、保存処理が施され当市歴史資料館で保存・展示されています。なお、近世以前の様子を描いた絵図「会津郡二本松城之図」では、屋根のある門が描かれています。
 第二期は、現存する礎石の時期で、この礎石は据えられた当時のまま残されいることが確認されました。柱間は3.2mあり、扉のためのホゾといわれる穴があることから、一枚約1.4mの扉の付く高麗門である可能性が高いと考えられます。両側には門台石垣が築かれ、その石積み様式から寛永初期の門跡であることがわかりました。
これらのことから、蒲生氏時代に掘立柱であった門を、加藤氏が石材を用いて整備したことが明らかとなりました。
 平成19年3月
 二本松市教育委員会



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 この搦手門から左に折れて、階段を登れば本城である。
 そのまま進めば、新城館につながる。

この搦手だが、中世ではこちら側に大手があったのではないかと想像する人もいるようだ。それは、新城館と反対側に進み、西に降りていく道を想定しているようだ。確認はしていないが、自然であり、あり得ないことではないとも思う。
by shingen1948 | 2008-08-03 04:11 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)