人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

二本松城址「新城舘」

 二本松城を中世時代の山城のイメージで散策してみたいと思った。
 二本松城のイメージは丹羽時代の城だし、二本松の案内は、ほとんどが戊辰戦争に関わって少年隊を中心にしたものが多い。
a0087378_4101310.jpg 
 伊達氏とかかわっていた時代、本城的機能を果たしていた重要な施設であることが判明したとしているのが、「新城館跡」とのことだ。
 観光案内板では、砲術道場で学ぶ少年たちが稽古を行った場所として紹介されている「少年隊の丘」と呼ばれる平坦地だ。

 この広場の西奥に、「二本松城址『新城舘』」の案内板が立っている。そこに、畠山氏と伊達氏の攻防の時代に、ここが本城的機能を果たしていた証拠が見つかったとある。それは、畠山氏が本城を自ら焼いて開城した後、入場した伊達成実がその後始末したとされるのだが、その穴らしき痕跡がここから発見されたとのことだ。


a0087378_4201314.jpg
 そういう見方をすると、その奥には土塁と思われる遺構がある。


a0087378_412457.jpg
 そして、その奥は切り通しになっていて、新しい時代の搦め手門につがって、現在の本城へと向かうようになっている。この時代には、現在の本城は物見櫓程度であったと推定されているらしい。


a0087378_4131681.jpg
 この二本松城址「新城舘」より一段下がったところも平場になっていて、智恵子抄詩碑がある。ここの案内板では、この二つの露頭石について触れ、畠山満泰が二本松城を築く際に夫婦の牛を生け贄にしたところ、牛の霊は天に昇り、身は石と化して「牛石」になったという伝説を紹介している。
 この石の置かれているあたりが、第2の曲輪と考えるのか、第1の曲輪の延長と考えるかは分からない。
 
  ここから、中世の遺構としてみると、松森館・本宮館へと続く散歩道が考えられそうだと勝手に思う。

 メインの「少年隊の丘」の西端にある案内板では、次のように紹介されている。
二本松城址「新城舘」
 二本松城が会津の支城であった時代、城主に代わって城を守る城代が二人置かれていた時期がありました。慶長6年(1601)~寛永4年(1627)会津領主蒲生秀行・忠郷のときで、2城代がそれぞれ二本松城内の東城と西城に詰めていたと記録にあり、ここ「新城館」はその西城にあたります。
 平成10.11年度の発掘調査の結果、大規模な掘立柱建物跡や平場を取り囲む掘っ立て柱塀跡も確認され、中世から近世後半期にかけて繰り返し建物等が建て替えられ、利用されていた事が分かりました。また、平場の南端には直径約4㍍、深さ約2㍍の大きな穴が発見され、人為的に大量の焼土と炭化材が捨てられていました。出土遺物から、茅葺き屋根で土壁の木造建築物が火災にあい、この残骸を整理した穴とみられました。古い記録に天正14年(1586)の畠山・伊達両氏の二本松城攻防戦の末、畠山氏が本城(本丸)を自ら焼いて開城した後、入場した伊達成実がその後始末したとあり、この穴がその痕跡である可能性が高いと判断されました。これらのことから、新城館は天正期には本城的機能を果たしていた重要な施設であることが判明し、記録の少ない中世二本松城の姿の一端がが明らかになりました。
 平成19年3月
 二本松教育委員会

by shingen1948 | 2008-08-01 05:09 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)