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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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向羽黒山城②

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 向羽黒山城の呼び名だが、二つの山が連なっていて、「岩崎山」が「羽黒山」の向えにあるので名ずいたと思っていたが、そうではないらしい。「山形・宮城・福島の城郭によると」向羽黒山城は、湯本村(東山町)の羽黒山に対しての名前のようだ。

  入口の案内板によると、芦名氏が築いた東北地方最大級の山城跡とのことで、16代芦名盛氏は黒川城を居城としながらも、本格的な山城として1561年(永禄4年)、岩崎山に築城を始め、8年の歳月を費やして1568年(永禄11年)完成させたとのことだ。


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 まずは、一の丸に向かう。登り口は苔むした石段になっていて、何度か曲がりくねって進む。


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 一度、山の際に突き当たって、そこを右に進む。空堀らしきところを通って、山頂に向かう。


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  山頂には、表示板があるが、それほど広い空間ではない。


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 山頂からの眺めはよく、夕方になってしまったのだが、大川がはっきりと見える。


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 帰りに、左手に進んでみたら、石庭のような空間があった。


   登り口の一の曲輪の説明は以下のようである。
向羽黒山城一の曲輪(本丸)
会津美里町文化財

標高408.8㍍の山頂にあって、会津を一望におさめることができ、戦国大名芦名氏の本拠としてふさわしいところである。
曲輪の東南は大川畔まで169㍍の絶壁で他は土塁や空堀で厳重にかためられ「詰めの城」とし、城中最後の場として周至な用意がほどこされている。 この山城の象徴的な建築物(天守矢倉)もあったと考えられ、曲輪東北部には櫓台状遺構が現存する。
その東側鞍部上の一の東曲輪には石庭の遺構と考えられるところもあり、この石庭は磐梯山などを借景とする眺望がすばらしい。

会津美里町教育委員会

  この城の築城の経緯を整理しておく。

 盛氏は、黒川城を拠点に芦名氏として最大の版図を築いたのだが、ここを隠居城として築城に着手したようだ。この時、家督を譲った盛興が、天正2年(1574)に早世してしまう。
 それで、盛興の後妻伊達氏を養女とし、須賀川城主二階堂氏より盛隆を婿に迎えて蘆名氏当主を継がせることになる。自らはその後見役として黒川城へ復帰する。
 この辺の事情を入口の案内板は、「黒川城を居城としながらも、」と表現しているようだ。
 この後、盛氏は天正8年(1580)死去、また蘆名氏当主も相次いで早世する。そして、遂に天正17年(1589)磐梯山麓摺上原合戦で伊達政宗に敗れて芦名氏は滅亡するということになる。

 向羽黒山城としては、盛氏の黒川城復帰の翌年、天正3年(1575)廃城になっているのだが、以後も着々と改修を重ね、会津領主が代わっても改修は続いたらしい。
 それは、黒川城の詰城としての機能が小田山城から移っていたものといわれている。
 文禄4年(1595)には居城以外の諸城の破却令が出されて破却されるが、上杉氏時代には徳川家康の会津侵攻に備えて改修が進められてたらしい。

 平成11年には、東日本最大級の山城跡であり、保存状況も良好ということで、国史跡に指定されている。
Commented by Tner-Harold at 2008-07-27 09:15
おはようございます。
山城あとの写真を見ました。これからも応援しますね。
Commented by shingen1948 at 2008-08-06 04:32
 コメントありがとうございます。
 どちらも公開するという手法の緊張感を利用して自分の頭を整理することに主眼を置いていて、受信を意識しない「独り言」タイプですね。
 よろしく。
by shingen1948 | 2008-07-27 05:36 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(2)