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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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松並木の中の「三忠碑」

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 磨上原あたりを旧二本松街道を中心として散策して、自分の感覚を昔のイメージに近づけてきたが、赤松林の並木が残るところには、「三忠碑」が建っている。
 これは、伊達正宗が、会津への執念で葦名氏に戦いをいどんだ「磨上原の合戦」とかかわる碑だ。
 会津藩主松平容敬公が、この戦いで主君に忠誠を誓って戦った芦名勢の家臣を讃えて建立したとのことだ。

 案内板では、次のように説明されている。
 町指定史跡
 三忠碑
 昭和44年8月1日指定
 天正17年(1589)旧暦6月5日、伊達正宗は宿願の芦名の所領会津を攻略すべく磨上原に軍をすすめた。この地の戦いに芦名義弘の家臣金上盛備・佐瀬種常・その子平八郎常雄の三士は主君の危急を救う。だが三人共々戦いの果てに討死した。その忠誠のさまを後世に伝えるため、会津藩主松平容敬公が建立したものであり、全文437文字を唐の書家、顔真卿の書体を集めて刻まれた日本でも珍しい碑文である。
 猪苗代町教育委員会
 平成2年9月設置

 この戦いを伊達正宗側から概括しておく。

 天正17年(1589)に、政宗は、安子ヶ島城や高玉城を攻め、猪苗代城の猪苗代盛国を取り込んで、猪苗代城に移る。
 伊達勢は、そこから総勢約23,000騎で、猪苗代盛国を先陣に、二陣に原田宗時、三陣に片倉景綱を従え、本陣を八ヶ森に陣取る。
 対する芦名氏は、黒川を出発し、総勢16,000余騎で、磐梯町大寺の東に富田将監を先陣に、二陣には佐瀬河内、三陣には松本源兵衛を従え、本陣を布藤に置き対峙する。
 6月5日朝に合戦が開始されたが、芦名勢の二陣三陣が動かず、夕刻には勝敗が決したという。 この日の戦いで、葦名勢が、約2,500人が亡くなったという記録があるという。

 ここまでのイメージで散策していたが、この戦いは、その後の展開が速く、もっと広い範囲を概観しておかないと捉えきれないようだ。

 伊達勢は、その日のうちに日橋川まで進み、更に西に塩川近辺まで進んだという。この時に恵日寺も兵火にかかる。
 次の日には、政宗は、大寺の東の磐梯町町屋に陣を張る。そして、葦名勢は柏木城を撤退する。
 そして、11日には黒川に入ってしまうという展開の速さだ。

 次の機会に範囲を広げて散策することにする。

 葦名氏は、これであっけなく400年間治めていた会津を追われ、茨城県に移る。その後佐竹氏に伴い秋田県角館に移っていく。
by shingen1948 | 2008-07-25 04:39 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)