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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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亀ケ城に立ち寄る

この亀ケ城が、会津藩の東の要として位置づけられることについては、前から認識があった。しかし、最近の興味は、伊達正宗が会津攻めのときに、この城が、味方に引き込むようにいろいろと働きかけていたということだ。
 「摺上原の戦い」のとき、陽動作戦として、いろいろと働きかけているようだが、この城が味方になるかどうかが勝敗を決定するほどのことだったということだったらしい。
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 せっかく立ち寄ったのだが、それほどゆっくりできなかったので、本丸から各方角を確かめることにした。
 案内図と照らし合わせてイメージを確かめる。


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 まず、本丸は土塁にしっかり囲まれている。


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雁木の表示があるが、不明。


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西側は、土塁と堀が二重に囲まれている。案内図によると、やや広くなっているところには、番屋があったようだ。


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 南側の平場にも番屋があったり、蔵があったりしたらしい。


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 北側の遊園地広場は、角櫓があったとのことだ。


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東側が入口だが、野積みで、堅牢な守りになっている。その前の平場が2の丸で、馬場とのことだ。


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 追手門を入って、角を曲がったところが、3の丸となるらしい。現在は民家のどうろでしかないようだ。


正面の案内板では、この城を次のように説明する。
 猪苗代町指定重要文化財 史跡
 亀ケ城跡
 平成10年1月7日指定

 三浦氏の一族である佐原義連は「奥州征伐」の軍功により、頼朝から会津四郡を与えられました。その子盛連には6男があり、長男である大炊経連が猪苗代を領して猪苗代氏を称しました。経連は、磐梯山南麗の弦峯の地に建久2年(1191)亀ケ城を築いたと伝えられています。 以後、14代盛胤まで猪苗代氏代々の居城でしたが、天正17年(1589)「摺上原の戦い」で葦名氏が伊達勢に敗退したことにより、盛胤も湖南横沢に引退し、猪苗代城主はここに終わりを告げました。
 しかし、亀ケ城は、江戸初期に出された1国1城令にも破却されず、近世を通じて城代ガ置かれ、幕末の戊辰戦争によって焼失するまで会津藩東の要として残された名城です。
 平成10年3月27日
 猪苗代町教育委員会

by shingen1948 | 2008-07-20 22:09 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)