「鮎滝渡船場」
2008年 07月 15日
この近くだとあたりを見回したら、入り口があった。
たった300㍍と気軽に入り込んだが、それほど甘くはなかった。下り坂であることは、覚悟したが、一部は藪のままになっていて、進む方向を見失う。
まず、民家と民家の間を通って行くのだが、そこはまだよかった。
初めのころは、草が刈り取られていたのだが、藪になり、進むべき方向も見失う。帰りが分からなくならないように、景色を記憶しながらとにかく先に進む。
しばらく動き回ると、また整備された道に出る。
その道を辿って下っていくと、阿武隈川がちらちら見えてくる。
降りると、石畳になっていて、水神が祀られている。そこに船着き場の石碑と案内板が建っている。
敷石道を先に進む。
船着き場から上蓬莱橋を仰ぐ。(6/13橋名修正)
案内板にある船をつなぐための石穴を探してみると、確かにあった。
鮎滝渡船場
この渡船場は、文部省指定史跡に昭和12年12月になりました。
伊達と信夫を結ぶ交通の要所として、人々の往来も多かったのですが、明治8年に上流に逢隈橋(俗称新橋)ができて、この渡しは廃止されました。往時の状況がそのまま残されている渡船場跡は、全国でも数少なく貴重な史跡です。
川原を船着き場まで下る敷石道は、いかなる洪水にもゆるぐことなく、また、船をつなぐための石穴が増水、減水などにあわせて3ケ所あり、よく保存されております。
福島市制百周年記念事業立子山実行委員会
平成19年9月
※ 6/13橋名修正「蓬莱橋→上蓬莱橋」となおしたつもりが、逢隈橋に上をつけて修正してしまった。そこで、再度「上蓬莱橋」と修正する。
何故誤ったのかを確認すると、案内板の読み取りで「逢隈橋(俗称新橋)」としている。案内板にそう書かれていたのか、それを誤記したのかは、今のところ不明。確認のため、あちこち検索している中で、文化庁のこの史跡の解説らしきものを見つけたので、ついでに付記する。
信夫伊逹兩郡ヲ結ブ交通ノ要衝ニシテ、古來鮎瀧ノ名ニヨリテ渡船要津トシテ特ニ著名ナリ。
明治八年上流松川驛ニ架橋ヲ見ルニ及ビテ遂ニ廢絶セルモ舊態尚ヨク保存セラル。
なお、ここでは、指定日が1937.12.21(昭和12.12.21)、管理団体が福島市(昭13・4・21)となっていた。
修正しながら、これは上蓬莱橋らしいのですが、この橋名を知らないと仮定して検索を進めると、地図では表記なし、案内板には「俗称新橋」をわざわざ表記しているということが気になってきています。
上蓬莱橋を新橋と呼ぶのは蓬莱橋に対しての「新」なのでしょうかね?
実は明治時代に建てられた「逢隈橋碑」が見つからなくて探してるところなのです。
明治8年に上流に逢隈橋(俗称新橋)ができたというのは、小国ー松川線という新路線にかかわる橋で、その路線変更に伴う渡船場の廃止ということで納得しました。
それが、時が過ぎて、昔の道筋が復活したということであれば、地域の方の思いが少し理解できたような気がします。