地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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義民③

 福島の享保の百姓一揆は、同じ岡田の支配下であつた立子山村の組頭小左衛門と百姓忠次郎が、佐原村の太郎右衛門に強訴を呼び掛けたのがスタートだ。
 立子山に出かけてみる。
 春田の道路わきの地図を確かめると、義民顕彰碑が疣石峠にあることがわかる。
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沢尻あたりから、疣石峠に入るらしいということで、案内板を確かめながら進む。一度通り過ぎて、戻ったとき、入口の案内を見つける。


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 案内板に従って、ここから入る。後で地図を確かめると、確証はないが、ここが川俣街道の古道ではないかと思う。


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 そこを進むと、消防屯所脇に案内板がたっていた。これから先400mとある。ここからは、轍はあるが、険しい山道のようだ。


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 一本道で、道に迷うはずはないのだが不安になる。


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 行き止まりかなと思ったとき、右手に義民顕彰碑が現れる。獄門となった小左衛門と忠次郎が3日2夜さらし首になった疣石峠の疣石は、この山神のあるあたりかと勝手に想像する。

 「福島のあゆみ」によると、村民はさらし首になった疣石峠の疣石に上がると罰が当たると言い伝え、義民の血を流したところを神聖化するため、伝説を作ったようだ。 


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ここに義民顕彰碑が建立され、その脇には3本の案内板が立っている。
そのひとつは、義民を称える曲で、獄門となった小左衛門と忠次郎とともに、八丈島に流罪になった伊三郎、三宅島へ流罪になった市之丞も歌われている。


 もう二つ案内板があるが、そのうちの一つは、町内会が建てた義民顕彰碑の案内板で、もう一つが゛、福島市制百周年記念事業の案内板である。

史跡 疣石峠(いぼいしとうげ)
 徳川八代将軍吉宗の時代、享保14年(1729)信達両郡のうち当時幕領であつた68ケ村の農民たちは、うち続く凶作で代官岡田庄太夫の圧政に耐えきれず一揆を起こした。
ここ疣石峠は、その責任を問われて死罪獄門という最も重い刑に処せられ尊い犠牲者となった義民、立子山の組頭小左衛門と百姓忠次郎の首がさらされた場所である。
 昭和57年8月1日
 沢尻町会 


 義民顕彰碑
 かつて疣石峠の道は、伊達小手郷の村々と福島城下を結ぶ重要な街道であった。
この峠において、享保14年(1729)の晩秋に、村民の小左衛門と忠次郎が3日2夜の獄門さらし首の刑に処せられるという恐るべき悲劇が行われた。
 当時、信達両郡内は幕府直轄の代官支配で、大森、川俣の2代官を岡田庄太夫が支配していた。岡田庄太夫は、重い年貢を課し、さらに前年からの長雨による凶作を無視しての実質的増税を強要してきた。
 農民達は、年貢の減免と種籾夫食の借用を願い出たが、逆に威嚇されて追い返される始末。
福島藩二本松藩への越訴を敢行しました。一揆の首謀者として、小左衛門、忠次郎は獄門さらし首、伊三郎は八丈島、市之丞は三宅島へ流罪となった。
福島市制百周年記念事業 立子山実行委員会平成19年9月



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 この疣石峠の道は、伊達小手郷の村々と福島城下を結ぶ重要な街道であったようだ。
 現在はここで行き止まりといった感じだが、これが、先に進む道なのだろうか。
 
 試す勇気はない。
by shingen1948 | 2008-07-13 05:13 | Comments(0)