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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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義民②

 市制施行60周年を記念して発刊された「福島のあゆみ」では、義民終焉の地とかかわる享保の一揆を中心に6頁にわたって百姓一揆について述べている。そして、農民の暮らし、世直し運動という項立てをして、その背景まで追求する。表現は子供の読者を想定して平易だが、深い。

 立子山の組頭小左衛門と百姓忠次郎が、佐原村の太郎右衛門に一緒に強訴しようと持ちかけたという。立子山と佐原村は遠方であり、なぜ結びつくのかと思ったら、一人の代官が広範囲にわたって支配していたらしい。
 この時の大森の代官岡田正太郎は、川俣代官も兼ねていたので、信達のうち74か村を支配していたらしい。佐原村では、荒川の氾濫を考慮するどころか、自分の手柄をあげるために年貢を増やす命令を出したということだが、どこでも同じような支配姿勢だったのだろう。

 その後、聞き入れられるわけもなく、二本松藩、福島藩へ越訴へと発展する。すると、幕府からは百姓退去の命令が下る。百姓は退去し、岡田は二本松藩700人に守られて、大森に戻ってきて、村の責任者を牢に引き立てるという事態となる。
 これをどうにかしようと、太郎右衛門が江戸の目安箱に願書を入れたが、武士にたてつく不届き者ということで、小左衛門と百姓忠次郎が死罪、太郎右衛門が奥州十里四方追放、その他90名が、財産とりあげ追放になる。
 これであきらめるわけにもいかず、次の手として太郎右衛門は、将軍へ直訴しようとするが、捕えられて死罪になったというのが概略のようだ。

 この本は、一揆その後までふれている。
 信達農民が多くの犠牲を払って得たものは、13年間二本松藩預かり地になったということだけだったとのことだ。

 そして、この時の代官岡田だが、他の代官に栄転したという。
 つまり、代官岡田は、お上のおっしゃるとおりに仕事をし、成果をあげて出世したのである。おっしゃるとおりの仕事とは、農民から搾り取ることと、反攻する者は徹底的に叩くということだ。

 多分、この本の編集者は、暴れん坊将軍のテレビ番組を見ながら、この将軍の農民政策の一つが、信達農民に多くの犠牲を強い、そして享保の改革として持てはやされていることを苦々しく思っていたのではないかと勝手に想像する。
by shingen1948 | 2008-07-12 05:08 | Comments(0)