地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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義民

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 吾妻球場の角には、義民太郎右衛門終焉の地がある。半沢氏のフィールドワークの「福島の百姓一揆」のメモによると、享保14年(1729)3月に幕領代官岡田の悪政に反対して農民が起こした一揆とのかかわりだ。
 この一揆は、大森、川俣両幕領代官所支配の信達68ケ村年貢減免の強訴と福島藩・二本松藩への越訴、そして、江戸目安箱への箱訴へと発展した。処罰犠牲者94名で、首謀者の立子山村の忠治郎と小左衛門は死罪獄門・天明根村与右衛門らは島流し刑死。そして、翌年1月箱訴した佐原村太郎右衛門も今の運動公園の北西の地で獄門となったとあるものだ。

 義民終焉の地の案内板は、以下のように説明する。

 当地佐原の義民太郎右衛門さまは、今から260年前近郷 35村百姓の窮状を救うため一揆を起こして命を捨て江戸幕府に直訴、遂にとかめられて、この地で打ち首獄門さらし首となる。
旧暦正月21日行年49歳

嗚呼

平成2年6月21日

辞世
人のため登る我が身のうれしさに
思ひ忘れかし信夫人々
人のため死する我が身の命かな
うらみとさらに思わざらまし


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 そこに、以下のような案内もあるので行ってみると、確かに標識があった。

 太郎右衛門さまの霊堂並びに御墓所はここから左手約2キロ先、その標識があります。(歩いて30分)


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その霊堂と墓所入り口の向かえには義民の供養碑がある。


 案内はそこまでだが、そこからさらに進むと、屋敷跡がある。
 荒川発電所辺りまでは舗装だが、その奥は砂利道となり、林の中に入っていく。その左手に義民太郎右衛門の屋敷跡はある。
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義民太郎右衛門の屋敷跡
戦国時代の末、自徳寺(現在慈徳寺)海上庵の長男、佐藤越後(田中内に住み名主となる)
の娘婿但馬の代から井の内に住み、但馬ー初代太郎右衛門(名主)ー2代太郎右衛門(名主)ー3代太郎右衛門名(義民太郎右衛門)と続いた屋敷跡である。
 昭和47年にここから掘り出された右柱の基部3本が現在義民堂内にに保存されている。
義民の供養碑 明治44年建立
建功院義岳良勇居士

by shingen1948 | 2008-07-11 04:34 | Comments(0)