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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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硫黄やまみちは?

「福島民報」にヤマユリライトアップにかかわる記事があった。
 「ヤマユリ育つ 強風被害のあづま運動公園」と題して、今年2月に大量の樹木が強風で倒れたが、公園内の約2万株のヤマユリが無事育っていることが確認されたとし、ライトアップを実施することが決まったとのことだ。

 その林を横切った所の道の脇に、「硫黄やまみち」という案内板が立っている。「この道とは」どの道だろうと思いながら、説明を読む。
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 掲げられた写真は、桶沼あたりの硫黄採掘の頃の写真のようである。
 そこからどこを通って、どこへ運ばれたのかは不明だが、ともかくここが「この道」と思っておくことにする。地図をたどれば、桶沼から土湯に抜けて、この道につながることは、不自然ではなさそうにも思えるが、……。


硫黄やまみち
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この道は、明治、大正時代には往来のはげしい硫黄山みちと呼ばれておのました。
吾妻山の桶沼付近(標高1622㍍)での硫黄採掘の歴史は古く、享保6年(1721)土湯村七左衛門が採掘したことにはじまり、明治26年(1893)吾妻山大爆発により、多くの硫黄が噴出したのを、大阪の長者大井七平が、本格的に採取、近郷の人々は、採取と搬出に働きました。
背に負い人力で2日に3俵(一俵は64㎏)を運んだと伝えられています。次第に道も゜改良され、搬出のためには荷車や馬車が用いられるようになって、大正時代には全盛をみました。
毎日夜半過ぎると何頭かの荷馬車がこの道を通り往復7里余り(約30㎞)の道を15時間を要し、一台に13俵を積んで運んだのです。
 一台の運び賃は、大正後期で7円50銭(当時米1俵約13円であったので、経済変動の激しい時代の安定した収入の源でありました。
 昭和時代になってからは、硫黄が次第に少なくなり、昭和8年(1933)には閉山となり、この道も廃道化してまいりました。




「ヤマユリ育つ 強風被害のあづま運動公園」(福島民報)記事内容

 福島市のあづま総合運動公園で今年2月に大量の樹木が強風で倒れた被害で、生育が懸念されていた公園内の約2万株のヤマユリが無事育っていることが確認された。一時は中止が検討されたライトアップを実施することも決まり、7日から準備がスタートした。
 ヤマユリを管理する県都市公園・緑化協会は、成長への影響を懸念しライトアップを中止する考えだったが、被害を受けても、たくましく成長する姿に感銘。「自然の素晴らしさを多くの人に伝えたい」と開催に踏み切った。
 木材チップを敷いた見学路も新設し、林内を横断しながら間近でヤマユリを見ることもできる。
 ライトアップは29日からスタート。見ごろとなる7月12、13の両日、噴霧器を使って霧を発生させるなど、期間限定の夜間演出も計画している。
Commented at 2008-07-05 17:40 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by shingen1948 at 2008-07-06 04:15
ヤフーの地図を見ながら想像しています。男沼に登らないで、塩川沿いの道を女沼まできて、そこから吾妻運動公園の方向を目指すのはどうでしょうか。それでもきついですか。
Commented at 2008-07-06 06:37 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
by shingen1948 | 2008-07-04 21:28 | Comments(3)