地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28

瀬戸川館を訪ねる②

 瀬戸川館についてのイメージは、まだ不確かだ。史跡のデータベースを見るとプロットの位置は、史跡の西端になる。また、頭の中で要図と地図とのイメージか一致ししていない。
 プロットされた位置は、「山形・宮城・福島の城郭」の説明のうち次の描写と重なるような気もする。
 
空堀の南に約6㍍四方の段上状の平場があり、中の郭より3㍍高く、眺望のよい場所である。ここから2㍍×4㍍の柱穴4本が発見され、平均50㌢と深く、場所から考えて物見櫓と考えられる。

 不確かだか、もしそうなら館跡はもっと東側ということになる。

 それはさておき、人取り橋の合戦の動きを、いろいろな資料を貼り合わせて想像する。
「山形・宮城・福島の城郭」では、次のように描写する。
 戦いは高倉城の小競り合いから始まり、会津街道から荒井の人取り橋へと発展した。本陣にいた茂庭左月は、士卒若干を率いて人取り橋方面へ将校を斥候に出した。荒井で敵の一陣と遭遇し、押し立てられ人取橋に退却したが、陣を立て直し、連合軍に攻めかかり、伊達軍100人余と共に左月も討死した。連合軍は勝ちに乗じて観音堂山の本陣めがけて一斉に攻めかかった。連合軍の支隊は成実の陣のある瀬戸川館に向かった。

 これを、連合軍側から見ると、三方面から北上するということになるようだ。
a0087378_5321193.jpg
 一隊は、佐竹、岩城、二階堂、白河、石川の軍勢で、高倉城方面に進む。ここで伊東重信を追い散らして、二・三十人を討ち取る。それから、北進して瀬戸川館の伊達成実勢と戦いながら、阿武隈川方向から観音堂山の敵本陣へと向かう。


a0087378_5391772.jpg
 もう一隊は芦名、佐竹、相馬軍勢で、荒井・五百川方面に進む。それから、人取り橋と瀬戸川館へと向かう。
 更に、もう一隊が佐竹、芦名の軍勢で、会津街道を進む。青田原に布陣した伊達勢の先鋒等を撃破して、荒井・五百川辺りに布陣した伊達勢を追い上げる。そして、人取り橋を越え観音堂山をめざす。


 この戦いでは、劣勢だったのに、連合軍が突然引き上げ、政宗の運命が大きく開ける。
 この運命を開くことに関して、ラッキーな事件の背景を解説するのが普通のようだが、それよりも、政宗が本宮城に退却した後も観音堂山の留守軍勢と瀬戸川館の伊達成実勢が日没まで持ちこたえたことが大きかったのではないかと思う。
by shingen1948 | 2008-06-25 05:41 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)