地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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高倉城の③

 天正13年(1585)伊達氏の輝宗報復と位置付けた二本松攻略戦で、高倉から本宮周辺で合戦となるのだが、機会あるごとにその事と関わる所を歩いてみた。
 その散策を整理してみる。
 天正13年(1585)の二本松攻略戦は、輝宗報復と位置付けられるのだが、この父輝宗の無念の地は粟の巣だが、阿武隈河原までは思ったよりも遠い位置だった。「粟の巣の辺りを散策する」
 「宮森城跡を訪ねて」ということで、粟の巣の戦いの起こったスタート地点として、輝宗居城を訪ねて整理した。
 ここまでが、この戦いの前哨戦だ。

 輝宗報復と位置付けた二本松攻略戦が開始されると、仙道諸氏は、佐竹義宣を中心にして、芦名・石川・岩城・白河氏他が連合軍を結成し、政宗に対抗する。
 この伊達勢の布陣にかかわって訪ねた所。
 まず政宗の本陣を観音堂に置く。ここは、ここは最近行ってみたばかりだ。「観音堂を確かめる」
 最前線の高倉城に富塚近江・伊藤肥前を配し、左翼遊軍として瀬戸川館に伊達成実を配したという。
 本陣の左右を留守政景、原田宗時で、本陣前後国分盛重で固めて、本陣の前衛を青田原に、荒井方面を浜田景隆に、そして、玉井を白石宗実に配したという。
 この中では、伊達成実を配したという瀬戸川館にはまだ行っていない。

 伊達政宗が、小浜城から本宮に移動する中間地点であり、結集した地点として、小浜と本宮(人取橋)の中間地点である「岩角山」には、このことに関わる案内はなく、漠然とした確かめだ。

 その小浜城では、「小浜城で伊達政宗に思いを広げてみる
 しかし、一時は本陣までも危うくなり、鬼庭佐月らの奮戦でかろうじて持ちこたえていた。この奮戦の地に鬼庭佐月の墓はあり、「人取橋の現地を訪ねて」としてまとめておいた。
 そして、茂庭氏と人取橋として茂庭氏に言及してみたのは、茂庭氏の故郷にかかわったことを思い出したからだ。
 茂庭氏の墓も訪ねてみた。懐かしかった。

 瀬戸川館の成実勢は孤立しながらも持ちこたえたことと、佐竹義宣の急な撤退で政宗は、結果的には、辛くも勝利することになり、翌年の二本松落城と続いていったということであり、ラッキーなことが重なっての勝利だったようだ。

 伊達政宗は、ここからいよいよ会津への道を探りはじめる。その通り道である「高玉城」「安子ケ島城」の不幸だ。はむかう意志はなくとも、たまたまその位置が領地だったがために攻め滅ぼされるというアンラッキーな城の代表のような気がする。
by shingen1948 | 2008-06-20 05:41 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)