小峠古戦場を見つける
2008年 06月 19日
その古戦場は別にしても、ここが土湯温泉から土湯峠に向かう古道の道筋とぶつかった所であることが推定できる。
土湯温泉から土湯峠に向かう古道の道筋は、太子堂の所からだったのを思い出した。太子堂から会津への旧道を確認した時、旧街道についての説明をみつけた。
古道は太子堂から野地温泉に向かって進むのだが、その道筋はほぼ送電線に沿っているとのことだった。「高湯温泉と土湯温泉②:戊辰戦争の悲劇」
その古道がここに繋がっていて、野地温泉に向かい、鬼面山の稜線を回り込んで、会津に向かったのだろうと推定がついた。
その古道の雰囲気を確かめるのに、少し下ってみて、そこからこの小峠を眺めてみる。
ここからは、古道の道筋が確かめられないので、少し下って送電線の走る道筋を確かめ、古道の道筋だろうと推定してみる。
大峠をみあげてみる。
案内板では、次のように説明している。
小峠古戦場
会津街道を登りつめ小峠の頂上に立つともう野地温泉は谷一つ挟んで指呼の間に望め、視野を広げると鬼面山の稜線に大峠が望めます。
この小峠は、慶應4年(1866)仙台藩を先発とする官軍が陣を構え、大峠に布陣する会津軍と対峙した古戦場で、当時の模様を「‥瀬上主膳を隊長として築州反50の兵を加えた850の兵を土湯に進め、会津街道小峠六合坂に陣を築いて、大峠の頂上で待ち構える会津藩と戦いを交えた。両軍の戦いの声は鬼面山にこだまし、撃ち合う大砲の煙はもうもうとたちこめて空を覆い、戦いは数時間に及んだが、夕暮れになっても勝敗は決まらず両軍はお互いに退いて、戦いは終わった」と伝えています。
この戦いの後、8月2日土湯は兵火にかかり、明治2年4月川俣民生局に対して、「‥普請成兼ネ候故、71軒ニ、1軒分ノ金トシテ、参拾両宛…」として災害救助金物借願いを提出しています。
土湯温泉観光協会
土湯街道は、土湯温泉から野地温泉までは古道とは全く別なルートのようです。土湯温泉の象徴的な位置の1つに、薬師こけし堂があり、(ここの原型は太子堂)ここから野地温泉までの古道は、おおよそ送電線に沿った道との説明があります。ここは、現在廃道で試す勇気はありません。
この険しい道と現在の土湯街道に重なる位置が、(土湯古道の感覚で)小峠ということのようです。ここから土湯街道と古道が重なって、野地温泉を経由して本物の峠である土湯峠の大峠にいたるということのようです。
この小峠の位置は、箕輪から鬼面山に向かう中間地点を越して、道路の右側の山菜とりの方が駐車スペースにしている中の1つで、案内板が立っています。
案内板でいう峠の位置は、ヤフーの地図が示す所がイメージしやすいです。
「土湯峠」を入力すると表示されるところが大峠。この地図で表記される野地温泉から横向き温泉までの登山道が古道と想像。(ただ、古道の論拠は無くて、勝手な思いこみです)
小峠は地図で確かめてみると当方の説明違っていますね。案内板から下る道がきちんと整備されていましたから、この地図で送電線までのびる道が表示されている所ですね。鬼面山も回り込んでいますね。散歩人のアバウトな感覚ですみません。
のんびり散策してみたいと思っている所の1つです。