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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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高倉城へ②

 高倉城についての案内が見つからないので、「阿武隈川データベース」で説明されたものを引用しておく。
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 高倉城は、本宮町との境、五百川が見えるところに二本松城主の畠山満泰の孫がつくったといわれています。
 1585年、伊達政宗が二本松城を攻めたとき、すでに高倉城は政宗の支配下にあったためなんとか勝利しました。
 1590年に伊達氏が去ったあと廃城となりました。

 天正13年(1585年)の戦いの時点では、この城主高倉近江は伊達氏の支配下にあったようだ。
 この時の高倉城での戦いについては、重要な位置であるはずなのに、まとまって説明されたものがみつからない。いくつかメモしたものをもとにして、それを繋いで整理してみると、次のような状況だったと推定される。

 この戦いでは、連合軍は、兵力において伊達氏を圧倒していた。この高倉城も簡単に抜かれ、守将の伊藤肥前は討ち死したという。
 戦いの内容も、大連合軍の会津勢は、高倉城を無視し、大軍で直接政宗を攻めようと直進したという。これに対して、高倉城からは、少数の兵力で横から攻めたという。続いてやってきた岩城勢には、足軽を前線に出して弓鉄砲を放たせてから、武士達が攻めかかったというが、撃破されてしまったとのことだ。

 参考にした資料も真偽も確かなものではないが、自分の頭の中では、寺の入り口あたりでの出来事としてなんとなくイメージされる。
by shingen1948 | 2008-06-17 05:38 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)