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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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土合館に立ち寄る

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 土合館に、立ち寄ってみた。土合舘公園として整備されているが、城館跡としての整備ではない。ただ、遺構としてみれば、それほど崩された訳でもない。


 基礎となる平場は、南北に長く広がっている。
土合館に立ち寄る_a0087378_5285642.jpg
 その上に、入り口の近くに、やや高めの円形の平場が載っている。そして、周りは土塁かなと思われるもので囲まれている。


 そして、その南側に一段高い平場が載っている。
土合館に立ち寄る_a0087378_524341.jpg
 一段高い南の平場が、この丘陵の頂部になっているようだ。


土合館に立ち寄る_a0087378_5252616.jpg
 ここには駒形神社、稲荷神社、厳島神社が合祀された駒形稲荷神社がある。ここが、主郭であり、恐らく館があったろうということは直に想像がつく。


土合館に立ち寄る_a0087378_5263213.jpg
 そこから、南西の方向に降りると基礎となる平場が細長く南西に伸びている。そこは、奥州街道の方向が良く見える展望台になっている。

 ここは、八丁目城から旧奥州街道を挟んで南東の位置にあり、観光協会の案内板にあるここは八丁目城の支城としてつくられて東館と呼び、八丁目城が西館と呼ばれていたという説明が良くわかる。
 この観光協会の案内板によると、築城は、天文十一年(1542)八丁目城主清野遠江守の父備前守と説明する。そして、その経緯については、八丁目城の経緯と土合館は対になっていたとする。
 そして、この起源は不明としながらも、鎌倉時代からも、要衝地としてこの地の領主は、この山を重要視していたのではないかと想像している。

 北側の平場に、ここを館として説明する案内プレートがある。
 土合山は松川町の東南字土合館に位置し、標高228.1m周囲1226m公園面積約5.5ha山上に館跡あり、即ち土合館である。その名の由来や起源は詳かではない。
 水原川とその両側に広がる平地を堰止めるが如く立つ独立山なので、山上からの展望はよく松川町の全容を一望におさめることができる。
 遠くは鎌倉時代、佐藤秀行がこの地の領主となり、次いで相馬重胤、南北朝合一の頃伊達宗遠が領主となり以降も戦乱が続き攻防にすぐれた当土合山が重要な役割を果たしてきたものと推測される。
 史書によれば、天文11年伊達稙宗はその子晴宗と相争い、八丁目に陣し、それから7年間戦いが続いた。この時、八丁目城主(愛宕館)は、清野遠江守、父備前守はここ土合山に館を築き備えた。それ故俗に隠居館とも言う。
 土合館を東館、八丁目城を西館、とも呼び、東館は西館の支城なるもその規模は大きく堅固であった。館の東北即ち今の字町畑には市街をつくり士卒をすまわせたと言われている。
遠江守は伊達家にそむき自害し、堀越能登守城主となるも二本松の畠山義国と内通したため、天正2年伊達家の命により伊達実元八丁目城を奪回しその後は城にとどまり同15年卒す。
天正13年伊達政宗の父輝宗が二本松の畠山義継に殺されるや、八丁目東西両館根拠に戦いをすすめ、伊達軍の勝利となり畠山家は滅亡した。
 実元の子成実は二本松城代に任命されるに及び、八丁目城は二本松の支城となり、家士20余騎、足軽50人鉄砲50挺をもって東西館を守備したが天正19年秀吉命により、政宗が移封された後は東西両館は廃城となった。
 土塁や空堀の残る館跡に佇めば興亡変転幾星霜館跡には、館の守護神として祭ったといわれまた後に奉遷したとも言われる駒形神社、稲荷神社、厳島神社が合祀されている。
松川観光協会
昭和56年4月

by shingen1948 | 2008-06-14 05:43 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)