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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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陽林寺②

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この寺に来ると、まず最初に目に入るのが、この寺の総門である。案内板によると「鳥道関」と命名された門で、元はこれより200m程下方に建立されていたとのことだ。
安永9年(1780)に16世にの完翁和尚の時代庫裡と共に建立されたもので、門額も和尚の書とのことだ。
 この寺の山号と寺名の命名は、稙宗公のようだ。彼の墓の前にある案内板ではそのことにふれている。山号はこの地の地名である位作とし、寺名は枝葉繁茂を祈念して陽林と命名したとのこと。この時、500石を寄進したようだ。


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  稙宗公の墓の隣りには観音堂があり、その前の道を山頂に向かって登ってみる。


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  しばらく登ると、まず小高い金毘羅様にたどり着く。


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  そこを右折して更に登ると、山頂に元小倉村(現福島市小田)の総鎮守である愛宕大権現がある。案内板の説明によると、この山自体も愛宕山というそうだ。
 ここは、雰囲気的には古舘のような感じがする。気のせいだろうか。

ここから東側を覗き込むと、今は木々で分からないのだが、平石のくぼ地のはずなのだ。季節によっては見渡せるかもしれない。その位置関係が面白いと勝手に感じている。
  伊達家のスタートが、石那坂での戦勝だとするならば、その戦いがあった所が見渡せるということだ。
 この地に、福島の地では最後の代である稙宗公が寺を開基し、そこに眠っているのだ。


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 大森城に関わっては、もう一つ墓がある。山中太郎右エ門の墓だ。安永5年(1776)より十数年間大森陣屋にいた幕府代官とのことだ。天明3年(1783)の大凶作の時、下役人中沢道右エ門と共に農民救済に奔走したという。
  この碑と燈篭は領民である渡辺和左エ門等によって寛政10年(1789)に建立されたとのことだ。彼は、寛政10年2月6日に亡くなったとのこと。
 右側の自然碑が寛政9年2月9日に亡くなった中沢道右エ門の墓とのことだ。
Commented by 犬連れ at 2013-04-01 16:30 x
位作山陽林寺は正に愛宕権現、朝日館の背後にあたり、東鏡の石那坂の戦いで伊達氏の先祖が武功をあげた場所ではないでしょうか。白砂に四本柱のお堂が残り、この近辺は斎藤氏を名乗る家々が多い。斎藤本家は没落してしまった様であるが、同じくこの地で武功をあげた長井の別当斎藤実盛の外甥の末裔ではないかと思います。同じく山道案内の安藤氏の末裔と思われる方々が大森に沢山おられます。同じく武功のあった工藤氏(二階堂氏)、これらの三家は古くより姻戚関係をもたれる信夫の旧家です。
この山の端に関根、大縄、窟沢、堰の上、地図で確認すると一段低い窪地があります。逢隈川の逢は合うで隈川に合流する川と考えると、俄かに掘った口五丈の湟に合致すると思われます。
厚樫山防塁は大伴家持の時代と南北朝時代の資料に見られる鉾推の城が、東鏡には見られない事から近世の創作文が加えられたと考えられます。
Commented by shingen1948 at 2013-04-04 07:06
情報ありがとうございます。
石那坂の戦いは、諸説あるようで、目にしたのは小林氏の福大の高まりの前に想定するもの、菅野氏の福大を超えた東側の崖を想定するもの、県史の山陽林寺から続く高まりに想定するもの、そして、碑のある位置に想定するものです。碑のある位置に想定するものは、古墳跡が通説で否定的ですが、残りはそれなりにそれらしいが、決定てはないという状況かなと思っています。ただ、概括的にみれば、どれも福島の盆地に入る辺りの想定ではありそうですよね。
古い道筋は福大から新幹線トンネルに抜ける道筋が有力であり、散策していても、その道筋の西側が開けていったのだろうことは想像が容易ですよね。そのあたりの情報を頂いたのかなと思います。
厚樫山防塁にかかわる部分は、当方が不勉強で現時点ではどう理解したらいいのか分からない状況です。
by shingen1948 | 2008-06-10 04:46 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(2)