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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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安積山②の歌

 「福島民報」の安積山に関わる万葉集の歌の木簡が出土したことに関わる記事をさぐると、5月28日は、「あぶくま抄」に関連をみつけた。1200年以上前の記録が木簡にしっかりと残っている驚きを題材にしていた。
 30日には、「「安積山の歌」木簡解明2教授意義語る」との見出しで、甲賀市で行われた解明に携わった両教授の講演の要旨を紹介していた。
 31日には、「「安積山の歌」木簡発見に思う」と題する郡山文化協会名誉会長の今泉正顕氏の寄稿文を載せていた。

 「安積山の歌」の話題は、まだまだ続きそうだが、今泉正顕氏の寄稿文で、注目したいのは、氏は、葛城王が、実際に安積を訪れ、国司の接遇が悪く、不機嫌だった王の前に進み出て機転で歌を詠んだという話は、実話だとしていることだ。
 葛城王が陸奥国の按察使として安積の郷を訪れたのは、「続日本書紀」などの資料から神亀4年(727)葛城王43歳のときだと思う。
(中略)
 葛城王は都に戻ってから、若い官人たちに、歌づくりには、こういう気配りを学ぶべきだと強調して、この「安積山の歌」を紹介したのだと思う。

  そうすると、都人が「あさか」という言葉とそのイメージで安積山を詠んでいるのではなく、現実の安積山を詠んでいるということになる。
 ならば、安積山について特定しておく事も大切なようだ。芭蕉が訪ねた安積山は、現在安積山公園になっている安積山だが、万葉集で詠まれる安積山は、額取山(1009㍍)と考えることが一般的で自然のようだ。「うつくしま百名山」(FTV)でも、この額取山を万葉集で詠まれる安積山として、八幡太郎ゆかりの展望の山としても紹介している。
 
一方、福島県史1(原始古代中世)では、歌と附記の書き下し文で紹介した上で、次のように安積山の歌は伝説であるとの見方を示している。

この物語の中心人物は、ただ「風流の娘子なり」とだけで、その名を逸しているが、安積の采女として有名である。謡曲の「采女」がこれから取材して猿沢池の伝承と結びつけ、さらに民話の「絵姿女房」とあわせて、今日の采女伝説が形成された。葛城王を称するものは、六国史だけでも3人あるので、左大臣橘宿禰諸兄とするのは早計である

 そうならば、都人のイメージの世界であり、大切なのは、「あさか」という言霊ということになるのだが……。

 福島短歌会長の今野金哉氏は、今回の発見が、「歌の父母」ということについての意義を指摘していた。
 「歌の父母」というのは紀貫之の創作ではないかという説を述べる学者もいたため、今回「二つの歌がセット」の形で発見されたことは、それに反論できる第一級の物証と言うことができる。


 いろいろな見方に影響を与える発見であったようだ。

 福島県史1に紹介される安積山の歌と伝説についての附記を引用しておく。
※ (万葉集の)という部分は、こちらが文意を明確にするために付け加えた。
(万葉集の)巻16には、有名な安積山の歌があり、これにまつわる伝説も附記されている。
安積香山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思はなくに    3807

 右の歌は伝へて去はく、葛城王陸奥に遣されし時、国司の祇承の緩怠なる異に甚し。特に、王の意悦ばず、怒の色面に顕る。飲饌を設くと雖も肯へて宴楽せず。ここに前の采女あり、風流の娘子なり。左の手に觴(さかづき)を捧げ、右の手に水を持ち、王の膝をうちてこの歌を詠みき。すなはち王の意解け悦びて、楽飲すること終日なりき。(原文漢文)

by shingen1948 | 2008-06-04 20:15 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)