地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「七夜坂」

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 七夜桜 はるばるここに 北杉田 やがて都へ 帰る身なれば
藤原実方朝臣

 先に来た時には、奥州街道の北杉田宿を過ぎたところで、現在も奥州街道の古道の一部が残っているという捉え方であった。それで、「奥州街道:杉田宿北の旧街道を確かめる 」ということだけで、七夜桜の歌碑には注目していなかった。

 しかし、芭蕉が安積ではなかつみを探し歩いたことは、陸奥守となった藤原実方の故事がかかわっているということを知ると、藤原実方が、ここで歌を詠んでいるということに意味がありそうだと思えてくる。


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 あらためて七夜坂を訪れてみる。そして、散策を楽しむために藤原実方にかかわることを確かめ整理してみる。

 奥の細道でも、藤原実方については、墓のある笠島で、みちのくの旅を先駆けた方への憧憬を持ってふれている。

 元禄2年(1689年)5月3日、芭蕉一行は仙台領に入って白石に一宿し、岩沼の武隈の松に立ち寄った後、名取を目指し奥州街道を北進する。
 断続的に降り続く五月雨の中ようやく名取に差し掛かり、土民に実方や西行の旧跡の処を尋ねると、右の山際で街道から一里ばかり先という。しかし、日没が迫り、悪路の道中で疲労したため、先行きを案じた芭蕉は、『笠嶋はいづこさ月のぬかり道』の句を詠み、涙をのんで名取の里を後にしたということになる。
 西行の話は、実方が死んで188年の後、西行にとっては二度目の陸奥への旅で、実方の墓に立ち寄り、霜枯れのすすきに心を寄せながら詞書と和歌を一首残したという、文治2年(1186年)の話とのことだ。

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 その藤原実方が、ここで歌を詠み、古道沿いとはいえ、その歌碑が殆ど人目につかない建築資材、廃材置場隣の寂しい山の斜面にあるというのはちょっと寂しいかもしれない。


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 歌碑は、文政9年(1826)建立とのことだから、芭蕉がこの歌碑を直接目にはしていない。しかし、芭蕉一行はここを通っているはずなのだ。今でこそ、七夜坂は国道によって分断され、桜も一本も残っていないし、工場の裏道でしかないのが惨めである。

 しかし、古来この道は「7色花が咲き誇る名所」であり、二本松城下町に通じる重要道であったということだ。この歌を知っていたかどうかは分からないが、実方を尊敬する芭蕉がここを通っているということが楽しい。

 奥州街道を任地に向かう途中、この地点に着いたときに、ここの七夜桜が満開だったのを見て都の桜を思う。任期を終えて早く帰りたいと思いをはせる。ここの歌は左遷説が似合う。



 藤原実方は、誰でもが知る方らしいが、一応整理しておく。
 藤原実方
  藤原実方朝臣は、長徳元年(995年)陸奥守として、陸奥へ赴任する。藤原行成との不和がもとで陸奥に左遷させられたとするものもあるが、赴任の儀式の時、正四位下に昇叙したことや、左近中将と陸奥守を兼任していたことから、「風流を求める実方自らの積極的な願望から」とする捉え方もあるという。
 実方は、四年の任期終了を間近にして、落馬が原因で名取の地で命を落とすのだが、その墓を芭蕉等は訪れてみようと思っていたということのようだ。

 彼は、冷泉天皇の第一皇子である院の寵を受けて、歌詠みとして広く聞こえた宮廷花形の貴公子とのことで、中古三十六歌仙の一人に数えられるということで有名らしい。
 清少納言など多くの女性たちとの交際が今に伝えられ、宮廷生活の交友歌や恋歌、贈答歌を数多く残しているとのことだ。

 左遷説では、中古三十六歌仙の一人で、宮中で遺恨のあった藤原行成とのいざこざを一条天皇にとがめられ「歌枕をみて参れ」と陸奥守として左遷されてしまったというもののようだ。
 各地の歌枕を訪ね歩いたということで、芭蕉等の先輩であるともいえる。
 出羽国阿古耶の松の帰途、笠島道祖神の前で、里人の制止を聞かず下馬しなかったため、落馬してその怪我が命取りになり、長徳4年(998年)に帰らぬ人となったという。
by shingen1948 | 2008-05-31 09:59 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)