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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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西山城⑥~稙宗と晴宗の対立の舞台

 稙宗が、本拠城を西山城に移すと直ぐに晴宗の対立が展開する。そして、この対立で伊達家は弱体化する。
 そのような状況下で、晴宗の長男「輝宗」が家督を継ぎ伊達家16代当主となる。彼は、祖父と父の尻拭いのような戦に奔走せねばならず、領土の拡大どころか侵略を食い止めることが精一杯であったようだ。

 更に、輝宗は信心深く、武将には不向きな人物でもあったようだ。近隣の諸豪族は伊達領を狙うチャンスであった。
 伊達家の将来を危ぶんだ稙宗は伊達家にふさわしい世継ぎを考えた。羽州の最上義守の男勝りの姫お義を輝宗の嫁にする事だった。その子が17代伊達政宗だ。

 輝宗の置かれた状況や彼の行動が象徴的な出来事は、天正13(1585)年の「粟之巣の変事」であろうか。
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 その前段階の事が、この西山城での稙宗と晴宗の対立だ。その部分を整理しておく。

稙宗が本拠城を西山城に移したのは、1532年(天文元年)で、1542年(天文11年)6月には、稙宗は鷹狩の帰りに、伊達家15代当主晴宗によって拘束され、桑折西山城に幽閉される。

晴宗が、父稙宗に反抗したのは、実元を越後へ入嗣させたことが、引き金になっている。今は兵力を温存せねばならない時なのに、三男の実元を越後の大守上杉定実のもとへ入嗣させることが決定されたのである。しかも100騎の精鋭部隊を添えて出すというものであった。そのやり方は強引で、家臣や国人層からかなり反感をかっていたということが背景にはあるようだ。この問題をめぐっては、反対する重臣の桑折景長と中野宗時が、「伊達家中は蝉の抜け殻となる」として晴宗を煽動したともいわれる。
その他に、稙宗は娘の夫である相馬顕胤に伊達郡の数ヶ村を分け与えることも決定していた。このことに対して晴宗の家臣団からは、相馬に恵む土地があるなら、我ら家臣に恵まれるようにすべきだと反発の声が上がっていた。このような家臣団の声もあって晴宗は立ち上がったようだ。

伊達家14代当主稙宗としては、奥州守護職を得て、更なる野望は奥州一帯に伊達氏中心としたネットワークを確立することであった。
稙宗は、11男6女をもうけたが、晴宗を除いてすべて奥州の諸豪族に入嗣または嫁がせていた。三男の実元についてもその計画の一環であった。
大国である越後の上杉氏を守り、かつ親族となることによって伊達氏の安泰は確かなものになるとの判断があったといわれている。

晴宗伊達軍と稙宗伊達軍は近郊の諸豪族を巻き込んで大乱となった。世にいう「天文の乱」である。この内乱は約7年続き、この間、西山城では何度も両軍の攻防戦が展開される。
始めは稙宗方が優勢であり、桑折西山城を奪回する。稙宗拘束に対し、女婿相馬顕胤と懸田俊宗がただちに動き、稙宗家臣、小梁川宗朝が桑折西山城から稙宗を救出する。
稙宗救出後、稙宗方には相馬顕胤、懸田俊宗、蘆名盛氏、二階堂輝行、田村隆顕や実施の大崎義宣、葛西晴胤らが付き、一方晴宗方には、ほとんどの有力伊達家臣や岩城重隆が付き、伊達氏内部での稙宗方と晴宗方に分かれての内紛から、縁戚関係を結んでいた南奥州の諸大名も巻き込んだ大乱となる。
しかし、家臣団の支持を受けた晴宗方が盛り返し、蘆名盛氏、最上義守らも晴宗を支持するようになる。
そして天文17年(1548)将軍足利義輝の命によって、蘆名、二階堂、相馬、田村氏らの調停が行なわれ、晴宗が伊達氏家督を継ぎ、稙宗が丸森城に隠居し、晴宗は居城を米沢城に移し、桑折西山城は破却することで決着した。

この大乱は7年間に及んだが、室町幕府将軍足利義輝の停戦命令によって終止符を打つことになる。この対立によって伊達氏の勢力は弱まっていく。
by shingen1948 | 2008-05-15 04:35 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)