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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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安子ケ島城

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 安子ケ島城を訪ねる。ここが大きな歴史の中に登場するのは、伊達政宗が、伊達氏と芦名氏との世紀の対決磨上原の戦いへ向かう前に、露払いとして攻め落とされたということである。会津に向かう便利な所に所領があったという不幸でしかない。
 その不幸な安子ケ島城は、現在は田圃の中にそこと分かるようにと建てられた石碑があるだけだった。
 石碑には、次のような説明が刻まれている。
 史跡 安子嶋城址
 戦国の将、阿子嶋 治部大輔祐高は、この地を居城とした。
 1589年(天正17年)4月、伊達政宗の軍勢は、会津城の要衝にあるこの城を包囲した。祐高は一戦交えんとするも、あまりの劣勢を悟り、会津に向けて脱出、5月4日開城する。
 平成4年5月から、安子島区並に安子島土地改良区は、この 史跡を郡山教育委員会の協力により発掘調査した。その結果、出土した茶臼や高貴な茶碗などの遺物から祐高は風雅を嗜みとした将であったが、容易に推測されます。
 この史実を永く後世に伝えるため、区役員相詔ってこの碑を建立する。
 平成13年11月吉日
 安子島区建立

 大きな時代の流れとしての物語は、伊達氏と芦名氏との世紀の対決磨上原の戦いである。
 この前の状況としては、天正14年(1586年)に二本松落城の後、天正16年に伊達氏が犬崎氏との戦いで敗北したのを切っ掛けに、芦名氏、佐竹氏の連合軍が、再び安達郡にやってきて、再び人取橋で合戦になるが、規模は小さく引き分けに終わっている。
 そして、天正17年(1589年)4月に、伊達政宗は米沢城を出発し大森城に入る。5月初めに芦名領の安子ケ島城と高玉城を攻め落とす。次に、相馬領の新地、駒ケ峯城を攻め落とす。そして、6月には、政宗は本宮城からすでに落ちた安子ケ島城と高玉城を通って、猪苗代に着陣する。
 その前に、片倉小十郎が、安子ケ島城、高玉城側から猪苗代に向かい、原田宗時、新田義綱が米沢から桧原に向かっている。
 これが、磨上原の戦い前夜である。

 伊達氏と芦名氏の抗争は父祖の代からで、政宗誕生直前の永禄7年(1564年)と永禄9年(1566年)に桧原口を襲ったが、芦名氏に撃退されている。天正13年には、政宗自らが来陣した。50日滞在するが、険しい山野に阻まれ、手兵は喜多方で敗戦して引き上げている。
by shingen1948 | 2008-05-13 04:14 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)