地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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西山城⑤化粧坂

 城山では、西洋タンポポにに混ざって、ニホンタンポポのシロバナがあったり、通路脇では関東タンポポがあったりと多様であった。
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 ここは、混じりのない関東タンポポ(だと思う)だけだなと思いながら、何となくシャッターを押した。大手門に向かう途中の穏やかな坂道だ。
 砲台跡の案内板で、このあたりが化粧坂という地区名であるらしいことは分かったが、そのいわれは分からなかった。
 家に戻って、「山形・宮城・福島の城郭」で確認するとそのことにふれた記述があった。
 坂町から中館・西館に通じる道筋は「化粧坂」と呼ばれ、緩やかである。城中に仕えた女たちの通い道の意味であろうか。

 「伊達正統世次考」や「伊達氏段銭古帳」には、稙宗には中館・西館と呼ばれる側妾がいたことが書かれているという。これは、側妾が中館・西館に住んでいたということを意味する。そこに向かう穏やかな坂が、「化粧坂」ということらしい。

 山城は、戦うことを目的にした城というのがイメージだったが、今回辺りも散策し、資料に触れると、中館・西館を中心に居住の城という機能がある城ということらしいことが分かる。
 
 今回は見落としたのだが、このあたりの地名はこの時代からそのまま残っているという。産が沢川沿いから西の山麓にかけての「中屋敷」というのは、伊達3代義広が居住したところという。「蛇屋敷」・「山屋敷」は、家臣が住んでいたところという。「蔵本」は、伊達氏の蔵屋敷だ。桑折に通じる産が沢川東岸の急崖をなす横断する坂道を「明星坂」というのは、城下から見れば坂の上に明けの明星が輝いたからだという。

 曲屋やこの時代の思いが込められた地名がそのまま残っているところをも、つぶさにゆっくり散策すれば、より実感が深まるのだろうという感じがする。
 自分としてはゆっくり見て回ったつもりだったが、まだせっかちな回り方だったようだ。時代が息づく呼吸に合わせた散策にまだなっていないということを改めて思う。
by shingen1948 | 2008-05-12 05:04 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)