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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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桑折の西山城へ①

伊達家初代朝宗の墓、12代成宗の墓へ立ち寄ったので、伊達家とのかかわりで西山城を散策する事にした。「桑折漫遊」という町のパンフレットでは、伊達家が、ここ伊達地方を拠点にして勢力を拡大していったことを、以下のように説明する。
 今をさかのぼる800年以上前、奥州合戦で功のあった常陸入道念西がこの地を賜り、伊達を名乗ったのが、伊達家のはじまりである。この初代、朝宗から数えて17代目が政宗。政宗の祖父にあたる15代朝宗が、将軍足利義輝の命で米沢城に移ったのが、1548年だから、なんと360年という長い年月、伊達家がこの地を拠点に勢力を拡大した。

 そして、西山城の規模について次のように紹介する。
 町の西方にある小高い山の連なりが、かつての伊達家の居城・にしやま城跡(国史跡)でその規模は東西1km、南北1.8kmにおよぶ。

 「福島の伊達氏」では、朝宗が本県で初めて根拠地を置いたのは高子岡とし、その後、梁川の粟野、桑折の西山(時代によって高舘、赤舘ともいう)にも城を築き、着々と勢力を広げていったとする。

 実際に来てみると、本丸、二の丸・砲台場が標高193mの高舘山と呼称されているばかりでなく、一かたまりになっているように感じる。まずはこちらを先にまとめておく。
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 山道を登っていくと、「熊に注意」の立て看板があり、不安になりながら進んでいくと、山菜採り帰りのおじさんに出会う。「城跡」を訪ねると、「確かにこちらだが、何にも無いよ。広場に便所があるだけだ」という。しばらく行くと、大手門跡の表示がある。後で分かったのだが、本当はそのまま前に進めば、本丸にたどり着いた。


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 それを、右手に進んだので、戊辰戦争の時につくられた「砲台跡」に着いた。確かに広場と便所があった。


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 一度大手道に出て北に進めばよかったのだが、そのまま北に進んでしまった。本丸跡に出るには、素人には堀切なのか自然の谷なのかは分からないが、そこをよじ登らなければならなくなってしまった。
 登ってみると、そこに本丸跡の碑が建っていた。


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 本丸を大手道に沿って降りていくと、二の丸が見える。ここもよじ登ってみると草ぼうぼうの広場だった。南側の土手は防塁になっているような気がする。


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 その土手を登ってみると、下に道路が見える。


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東側をみると、虎口になっているような気がする。
 土手を降りて、西に進んでみると、右手に道があって、ここから二の丸に入れるようになっていた。

 ここまでが、この城の一かたまりのような感じがする。


 ここで、「福島の伊達氏」で、朝宗が根拠地を高子岡から梁川の粟野、そして西山に城を築いて、着々と勢力を広げていったとする根拠の記載部分を整理しておく。
 根拠は、「信達ニ郡村誌」のようだ。
 高子岡から、三代義広が粟野大館に移したとするが、これは梁川城の別名ではないかとしている。しかし、梁川城は文治5年(1189年)に朝宗が築いたと書いてあるという。
 このあと伊達氏の本拠は桑折の西山城(高舘、または赤舘ともいう)に移ったが、ここも初代朝宗の築城という言い伝えがあるとしている。
 現に、この城のふもとからは、鎌倉時代のものとみられる壷や甕、五輪塔の基部の断片などが出土しているという。
 伊達一円を領した伊達氏が、伊達郡の中心地で、政治経済の要であった桑折に本拠地を求めるのも自然な事であるのも根拠の一つになっているようだ。

 本丸碑文からは、地元の思いのようなものが伝わる。



西山舘碑文
 高舘城は、文治5年(1189)朝宗が、源頼朝の藤原氏征討の軍に従って功をたて、恩賞として信達の地を賜り、常陸の国伊佐からこの地に移り天然の要害を利用して山城を構えた。即ち、北は深い産ケ沢の峡谷、東南は急坂の陰で、信達の野を一望におさめ西北には中舘、西館を奥深く備えて稀にみる大規模なものであった。
 本城は第一代朝宗以来、第15代晴宗、米沢移城まで、約360年の長い間伊達氏の本拠地であった。この間、南北朝時代の城主は、郷土の士を率いて、北畠顕家と共に各地に転戦し、盡忠のまことをいたし、室町時代には勢を拡張し、奥州探題守護職の要職にあって広域にわたる軍事行政の実権を握った。
 城に因む地名は、現にそのまま用いられ、壕、塁の跡は各所に残り、昔を偲ぶに充分である。
今日、明治100年を記念し、当時を追憶、顕彰し、旧本丸跡に建碑し、永く後世にうたいつぐものである。
 昭和44年3月
 桑折町
 文化財保存会

 題字揮毫 町長 宍戸房吉
 ○○撰文 教育長 遠藤 勉

 ※2字不明は、メモ不備のため 
by shingen1948 | 2008-05-05 04:47 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)