地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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伊達成宗の墓を訪ねる

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 伊達氏初代朝宗の墓を訪ねたついでに、小坂宿の近くにある12代成宗の墓についてまとめておく。実際には、ここには羽州街道を散策した帰りに立ち寄っている。


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 小坂峠に残る墓は、昔の舘跡付近の草むらにひっそりと残っているが、いつの時代に建てられたかは明らかでないという。
 成宗は、11代伊達持宗の次男で、梁川を中心に活動していたが、晩年は、梁川城から小坂の小屋館に隠居し、その近くの地に菩薩寺「五峯山松音寺」が建立され、遺体は葬られということのようだ。
 この寺は宮城県伊具郡丸森町に移っている。菩提寺は移ったが、その縁の地にも分骨されたものだろうとのことだ。
 成宗の没年は詳しく分かっていないが、伊達氏の史書では1487年(長享元年)53歳で死んだというのが有力視されているという。48歳という説もあるとのことだ。
伊達氏の沿革を概観する中で、この12代成宗を確かめるのには、「梁川町郷土史年表」がいい。
 この中の12代成宗の記述は、以下の二行である。
○ 1483年(文明5) 伊達成宗上洛し、足利義政に■す。
○ 1488年(長享2) 大崎義兼伊達成宗を頼って簗川に亡命する。

 1483年(文明5)の記述は、1462年(寛正3年)とこの年に京に上り将軍足利義政、その子義尚におびただしい進物を送った事を指している。その贈り物は奥州を僻地と軽んじていた京人を驚かせたとのことだ。
 「福島の伊達氏」によるとその品々は、太刀23振り、馬95頭、砂金380両、銭57000疋(ひき=銭10文、あるいは25文ともいう)におよんだとのことだ。

 この進物の背景には、伊達氏の室町幕府との関わり方がある。
 父の11代持宗は、関東管領と室町幕府との主従関係が弱まった事をみすかしたて、京都の幕府と直接取引きに出た。関東管領との戦いに勝ったり敗れたりする中で、時代の流れをたくみに引き寄せ、信達の地に勢力を盛り返し再起する。再起後に、二度上洛し、時の将軍義持から一字もらってその名にしたという。その後、伊達氏は代々の足利将軍から一字もらってその名に付け、150余年この地を支配する事になるという。
 そういった背景の中での進物だ。もっと深くは、伊達氏は南北朝期に一貫して南朝方に着き、戦いには敗れるのだが、奥州の中での勢力は揺るがなかったという背景の中での出来事でもある。

 1488年(長享2)の記述は、大崎氏内乱が起こると、成宗は、妻が大崎氏出身という経緯から大崎氏の当主・大崎義兼を助け、これを当主として復帰させることに務めたことをさしている。

 伊達氏の代々の子孫は成宗の追悼の祭礼を行なっているとのことだ。
by shingen1948 | 2008-05-04 05:54 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)