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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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石那坂古戦場を訪ねる

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石那坂古戦場の碑を訪ねて、それを目印にして古戦場を思う。
ただ、「ふくしまの歴史」によると、この碑は真実とは少し違うらしいことが記述されている。
1884年(明治17年)石名坂の一村民が開墾中掘り出した古刀や須恵器を軍役所に届けた。当時の郡長(柴山)は、これぞ石那坂で戦死した佐藤一族の墓としてこの碑を建てた。しかし、これは古墳時代末期の横穴式石室をもつ古墳からの出土品であることが分かった。

この碑の傍に建っている案内板は、次のように解説する。
ふるさとの良さを見つけよう
<史碑> 石那坂古戦将士之碑

源義経が兄頼朝のもとをのがれて、弁慶と共に平泉へ行きました。頼朝はこれ幸いと、東北制覇を心にきめて、中村朝宗を総大将として義経を追いこの地に攻め入りました。
飯坂の大鳥城を守っていた義経の忠臣継信・忠信の父佐藤基治は、この軍勢をこの場所から見渡せる石那坂一帯で迎えうったのでした。これが、文治5年(1189)8月6日ごろ、はげしい戦いとなった「石那坂の戦」なのです。この戦いで、佐藤基治の軍は大敗してしまい佐藤一族は亡びました。敵味方の屍が、このあたり一面にちらばったにちがいありません。
明治18年(1886)3月、信夫郡長柴山景綱はここの戦いで戦死した将兵をとむらって、この碑をたてたのです。
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「ふくしまの歴史」の記述をもとに、阿津賀志山の戦いと石那坂の戦いを整理する。
阿津賀志山の戦い関連は、次のようである。
「吾妻鏡」によると、頼朝の軍は1189年(文治5年)7月19日に、平泉めざして鎌倉を出発する。軍は、中通りの東山道、太平洋側の東海道、日本海側の北陸道の3手に分かれて進む。頼朝は、自ら東山道を進む。
7月29日には白河の関を通り、8月7日には国見駅に着く。
8月8日に、頼朝の軍と平泉の軍との戦いが始まり、8月10日に阿津賀志山が攻め落とされる。
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戦いは石那坂でも行なわれている。その部分は、次のようである。
8月8日、信夫庄司佐藤基治は、一族を率いて、頼朝の軍の常陸入道念西の息子らと戦う。しかし、その日のうちに敗れてしまう。一族18人の首が阿津賀志山の経が岡にさらされたと「吾妻鏡」にかかれているとのことだ。
  ただ、佐藤氏は、この戦いで大きな痛手は受けるが、子孫は各地で生延びているという。それは、佐藤系図に、元治(基治)の弟やその子たちに白河太夫・白河太郎・石河六郎・安達庄司を名乗る子孫の名が記載されている事を根拠にしている。

この辺りが戦場であったことは、根拠が薄いようだが、充分に想像可能ではある。
by shingen1948 | 2008-04-30 04:23 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)