地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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阿津賀志山防塁③

 この阿津賀志山防塁を訪れる前に、県立博物館で予備の知識を入れようとしたことがある。

福島県立博物館にこの阿津賀志山防塁が復元モデルが展示されているのだ。福島県立博物館のホームページでは、以下のように説明している。
奥州藤原氏が築いた阿津賀志山の二重堀(伊達郡国見町)を再現した模型です。弓矢を射ち合い、騎馬武者が疾駆する当時の合戦のようすもわかるようにしました。ただし、実際には頼朝軍は堀を埋めるなどの作戦をとって大勝したといわれます。

この場面は、この二重堀の再現である。
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ここに建つ案内板では、以下のように説明されている。なお、この説明は、阿津賀志山山頂、阿津賀志山防塁横断位置、高橋地区の阿津賀志山防塁、そして、ここ二重堀で見かけた。


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国指定史跡
阿津賀志山防塁

指定 昭和56年3月14日
この遺跡は、文治5年(1189)の奥州合戦に、平泉の藤原泰衡がその異母兄国衡を将とし、源頼朝の率いる鎌倉軍を迎え撃つために築いた防塁遺構で、「吾妻鑑」には口五丈堀と記載されており、地元では「二重堀」と呼ばれている。
防塁跡は、土塁と空堀からなり、阿津賀志山腹から南下し阿武隈川の旧河道にある滝川までの約3.2kmにわたって所在する。防塁跡の一部は開発等によって失われているが、各地区に二重の堀跡と三重の土塁が現存している。
この防塁跡付近一帯の地は、文治5年8月8日から10日にかけて激戦が展開された古戦場であり、本遺跡は、鎌倉幕府の全国支配の帰趨を考える上で極めて重要なものである。
注意事項
一 自然を大切にしましょう
二 ゴミは持ち帰りましょう
三 史跡保存にご協力下さい。
平成2年3月
国見町教育委員会

県立博物館で予備の知識を入れようとした時、学芸員の方に阿津賀志山と防塁の位置関係を尋ねたのだが、時間をいただけますかとのことだったので諦めた。
実際に訪ね歩いてみて、あれは若い方にはかわいそうな質問だったと反省している。何度か訪ねて初めて実感できるスケールを、あの場で説明しろというようなものだからだ。

今度は、先の説明のうち、次の部分が気になって困っている。
ただし、実際には頼朝軍は堀を埋めるなどの作戦をとって大勝したといわれます。

吾妻鏡に、この防塁の存在は鎌倉側も察知し、畠山重忠は鋤や鍬を持った工兵隊80名を同行させ、夜のうちにこの堀を埋めてしまったとあるということのようなので、これを根拠にしているのだと思う。


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 しかし、案内板に自然に埋め戻ってしまった部分と現況との比較図がある。これが、説明では4km、学術的な説明では3.2km延々と続く。発掘された調査結果からは、労力は延べ25万人、6ヶ月以上もかかったということである。工兵隊80名で埋め尽くすことのできる規模ではない。
 これは、勝者側にたって描かれた場面であることを考慮する必要があるのだろう。勝者にとっては、それほどのものではなかったといいたいのだろう。しかし、たとえ記述したような事実があったとしても、80人で一夜にして総てを埋め尽くす事はできるはずがない。
 勿論、防塁構築の努力もむなしく、奥州軍は敗走したということは事実である。

 専門家の見解はどうであれ、ここを探索した一般人が普通に考えれば、敗因は、防塁の性能の問題ではないことは明らかだ。その他の鎌倉側の陽動作戦や奥州軍や泰衡自身の心理的な油断、そして、この防塁が突破されてしまった心理的な敗北感に言及したくなるし、それが自然に思う。

 いずれにしても、国見は、東北の歴史を塗り替えたところである。
 平泉方の大将藤原国衡の軍勢がここに陣を取って源頼朝の率いる鎌倉の大軍を迎え撃った場所であり、防塁構築の努力もむなしく、奥州軍が敗走するきっかけの地である。
 ここで、平泉藤原氏は幕を引き、芭蕉のあこがれる義経の忠臣佐藤基治が討死する。
 そして、この戦いは、新しい奥羽の統治者を登場させる。この戦いで功を遂げた常陸入道念西が、伊達郡を与えられて初代伊達朝宗が伊達氏を名乗るのである。そのスタートの地点がここにある。
by shingen1948 | 2008-04-29 06:03 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)