地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「聾」を考える

福島民報(4月13日)日曜論壇で、玄侑宗久氏が「なんのための改名か」と題して、聾学校が「聴覚支援学校」に改名する事への疑問を述べているのを読んだ。

その中で、彼等は「聾」という言葉に誇りさえ持っているとしていたが、そのことに心当たりがある。

 子どもの難聴の問題を考えた事がある。
 これは、完全な聾の問題ではなく、中途の状態の問題だが、これに関わると氏のいう聾の問題にぶち当たる。しかも、それは聾をそのまま受け入れるか、解消しようとするのかという選択の問題が派生する。
 氏の言う聾ではないが、聞きにくいという状態をそのまま受け入れて生き方を考える選択肢がある。それから、補聴器という器具の力を借りて音が聞こえる状態にするという選択肢がある。更には、手術をして骨伝導を使って、音が聞こえる状態にするという選択肢がある。

 この3番目の選択肢がでてきた事で、幼児期の選択で親は悩む。幼い体にメスを入れること、そして、その決断は早くなければ効果が期待できないという側面がある。認知にかかわるからだ。音の認知、音の変化には意味があることの認知、概念との結びつきという細かいステップを踏んで、私たちは聞こえるという状態なのだと改めて思い知らされる。
 更には、この選択は、状態の選択ではなく認識の選択であり、コミュニケーション手段の選択とも深くかかわるものなのだ。

 モデル的な言い方をすると、完全な聾の人は、音と概念の関連をせずに、世界観を作り上げている存在だ。難聴の人は、聞こえる音と概念の関連性があるものもあるし、ないものもあるという状態ではないかと想像する。
 ここに聞こえるようにするという行為は、聞こえる音が今までの状態に無理やり入ってくるということでもある。しかも、その音と概念の認知にはかかわりがない状態が出発点だ。もっと言えば、音は入り込んでいるが、聞こえている事すら認知できない状態だってありえるということだ。

 聞こえないということをそのまま受け入れれば、何の混乱も無く手話または唇の動きを読み取る方法などで、コミュニケーションができる。ところが、聞こえる状態にするという手段を選ぶと、音が聞こえている事を学習する事が必要になるし、その聞こえているという状態が認知できるようになると、音には意味のある配列があり、それが概念とかかわる事の学習が必要になるのだ。
 更には、骨伝導を生かす方法では、幼い赤子に大きな手術が必要になる。しかも迷う時間はない。このコミュニケーションと関わる部分は、決断が早ければ早いほど自然な受け入れになるからだ。

 これを支援ということから考えると、誰もが必要な学習のほかに、聞こえない状態のハンディを補助する手段が必要になる。一つは、聞こえている事と概念を結びつける学習の支援が必要になる。更に、そのことと絡んでコミュニケーション手段の学習支援が必要になる。そして、当然、聾学校あるいは聴覚支援学校とのかかわりの中で、それらは解決していくのだから、聾という言葉に誇りさえ持っている方々とのつきい方を学ぶ必要も出てくるのだ。

 どの選択が正しいのかは置かれた環境によって違うような気がする。さとった人も素晴らしいし、迷いながらもそれぞれの状態を選択した生き方も素晴らしい。自分には力のなさであることは承知のうえだが、モデル的な正解が見えない。
by shingen1948 | 2008-04-25 05:09 | ☆ 教育話題 | Comments(0)