人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

「露伴の由来、句碑が完成」

  「朝日新聞」福島版(2008.2.24)に、露伴の由来句碑が完成されたことが報じられていた。
 幸田露伴が、文学を志した道中、二本松市の峠で休んだのは、亀谷の茶屋だとして、文豪幸田露伴ペンネームゆかりの地碑を建立したとのことだ。
亀谷坂は旧奥州街道で、坂の頂上には峠の茶屋「阿部川屋」があって、この茶屋では、静岡県から職人を連れ帰り作らせたもちが名物で「阿部川餅」と親しまれていたことと、二本松市の峠の茶屋で休んだときに、露伴のペンネームになった句「里遠し いざ 露と寝ん 草枕」がよまれたとする説を結びつけて観光地に利用しようということらしい。

どうでもよい話なのに目をとめたのは、先日、現在光恩寺になっている「杉田城跡」を訪ねたときに、「幸田露伴命名の地」なる案内板をみつけたことが気になったからだ。
a0087378_494426.jpg
 その案内板によると、古奥州街道は、この館の高台を通っていたとする。そして、古奥州街道与衛門茶屋のあったのはこの辺りだとの説明だ。したがって、「里遠し いざ 露と寝ん 草枕」がよまれたのは、ここだという主張に聞こえる。案内板は、寺の方が建てたらしい。

 マスメディアを動員して、亀谷の茶屋説が有利のようなので、杉田館跡説に応援の意味で感じたことを付け加えておく。勿論、だからといって新聞記事を荒立てるつもりはないので、念のため。
 ここの古街道設定があり得る話と感じるのは、三春街道を三春から西田町に抜けるところにある札所跡あたりの景色の雰囲気に似ているからだ。確かあそこの地名は谷地といった。ペグマタイトのある春日神社近くだ。ここの古道は、札所から一気に下る。その脇に高台があって、今は神社になっている。昔はここに茶屋があったらしい。今風に考えると、街道を下るのにわざわざ高台に登るのだろうかと思うのだが、当時は徒歩である。
 一度見晴らしのいいところに出て、休みながら方向を見定める。一息ついて街道を下るのだろうと想像すると納得がいった。
 その景色に似ていた。

 ただ気になっただけという話だ。




「露伴の由来、句碑が完成」朝日新聞記事内容(2008.2.24)

 二本松市の亀谷地区が、文豪・幸田露伴ゆかりの地だったとして、地元住民でつくる「亀谷まちづくり協議会」が23日、雅号の由来とされる俳句を記した文学碑を完成させた。同協議会は今後、露伴文学を生かした町づくりを進めたいとしている。(北川慧一)
 露伴の本名は成行(しげ・ゆき)。「蝸牛(か・ぎゅう)」や「脱天子」などいくつかの雅号を使ったが、中でも大切にしていたのが「露伴」とされる。東京下谷出身の露伴は、電信技手として1885(明治18)年、北海道に赴任したが、文学を志して帰京。その道のりを記したのが「突貫紀行」だ。亀谷地区の言い伝えでは、露伴が福島から郡山まで歩いた1887(明治20)年9月28日、奥州街道の峠茶屋「阿部川屋」でモチを食べ、近くで休んだときに詠んだ句が「里遠し いざ露と寝ん 草まくら」とされる。露伴がその後出版した「対髑髏(どくろ)」という作品には、この句から「露伴」というペンネームを取ったとある。
 阿部川屋は現在、石材店となっているが、元県婦人団体連合会長の山本ナカさん(97)によると、露伴の次女で作家だった故幸田文も、ゆかりの地として訪れたことがあるという。
 協議会は今後、露伴文庫の設置や阿部川餅を出す茶屋の復元、研究者を招いた交流会などを検討しているという。同協議会長で自営業の大河内守夫さん(63)は「露伴をきっかけとして歴史や文学の豊かな観光の町にしたい」と語る。
 露伴関係の著述を多く所蔵している千葉県市川市の同市文学プラザは「露伴の弟子である塩谷賛の著書などからは、二本松でこの句が詠まれたか、後に二本松での日々を思い出して詠んだか、どちらかである可能性は高い」とする。
 露伴の文学に詳しい中野三敏・九州大名誉教授(近世日本文学)は「句をどこで詠んだのか、具体的な資料があるかどうかは不明だが、地元の人々が中心になって地元の文学を検証するのは面白い。露伴の郷土史研究の呼び水になれば」と話している。
by shingen1948 | 2008-03-06 04:12 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)