日教組の教研集会拒否問題を考える
2008年 02月 25日
昨日、別の話題について書いたのを切っ掛けに、これら気になっている事を先にまとめで、それから、この散策について整理されたことを書いていくほうがいいのかもしれないと思う。
グランドプリンスホテル新高輪が、会場使用を拒否し、日教組の教研集会が開けなかった事について気になっていたが、考え方が整理できないでいた。
分からない点の一つが、ホテルは、裁判で会場を使用させるように命令したにも関わらずそれに従わないということについてどう評価すればいいかということだ。
その二が、明らかに正当性を認められたのに、日教組は実際にはホテルの態度に抗議することもなく、平穏無事に事が済んでしまったことだ。
そして、その三が、誰も問題にする事のない出来事になっていることだ。
この問題は、イデオロギーを持つ集団がかかわっているので、意見者のイデオロギーに対する姿勢を見極めることが大切だ。客観的な意見として参考にできる意見に出会うのはなかなか難しい。
そんな中、「朝日新聞」(2008.1.14)の[教研集会拒否「村社会文化の横行を映す」]という東京工業大学(社会学)橋爪大三郎氏の評論を読む事ができた。
裁判所の決定を法律論で、契約の考えから支持している。更に、脅迫の事実があるのなら、それはホテルの責任ではないが、脅迫の事実を明らかにする責任がホテルにあるとしている。
次の憲法論も一般的な解釈として正当な意見ではあるが、読み手は書き手のイデオロギーを疑えば正当性の説得に、威力がなくなってしまう。
説得力を感じたのは、ホテルマンの道義としてというところだ。氏は次のように言う。
法律論はそうだが、ホテルマンの道義にもがっかりだ。いったん約束したら、体を張ってでも客を守るのがホテルの責任のはず。「周囲や他の客の迷惑」よりも、日教組の利益を考えるべきだろう。見ず知らずの客との契約を絶対とすべきホテルが、近所の迷惑とか言い始める江戸時代の発想では困るのだ。
(中略)
契約した以上、名誉にかけても全国集会を実現します、だったらこのホテルの株もあがっただろうに。
同時に、被害者の日教組についても注文をつけている。
ひと回り小さくてもいいから体育館か倉庫を借りる手配をし、新宿や渋谷の駅前で「署名とカンパをお願いします」と訴えれば応じる市民もいたはずだ。開催が危ぶまれた日教組の集会が市民の力で実現できたとなれば、押しかけにくくなる。柔軟な危機管理能力と市民とともに歩む姿勢がもっとあってもよかった。教育者としては少々心もとない。常識で考えられない事件が増えている。組織に安住して、自分の頭でものを考えられなくなっているのではないかとしている。
この事件が、氏の挙げた他の事例と違うのは、事件になっていないことだ。政治ができない政治家は、社会的な問題として取り上げられた。経営のできない経営者も、安全をわきまえない食品業者も社会的な制裁を受けた。
裁判に従わないグランドプリンスホテル新高輪は、現在まで何事もなく社会に受け入れられている。日本の法治国家の秩序なんて、こんな程度なのだといわんばかりである。そして、日教組が激しく批判しているというニュースも聞かない。
何事も無かったかのように過ぎ去っていく。裁判所のさばきなど無視してもどうでもないことだということが、日常の出来事になっていくことが怖い。
そして大元の憲法をないがしろにしてきた自民党政治の成果が顕われて来たのである。 おそらくは遠くない未来、こんなブログなど自由に書けなくなるだろう・・・・ 悲観的にならざるを得ない
片田舎に住んで散策していると、漠然と大きな力に「義」という概念に近いものが押しつぶされていく歴史を感じてはいます。青臭いのは承知の上で、この感覚の大切さを確かめていきたいと思っています。