安達太良山麓埋蔵文化に人の影を見る
2008年 02月 17日
その1人は、この地域の埋蔵文化の基礎を築いた高橋丑太郎氏だ。現在もこの地域の文化については、彼の築いた実績から抜け出すことができないでいる。
残りの2人は、出土品に関わる興味関心を持った人物だ。その1人は二本松藩主だ。郡山台では焼き米発見の名誉が与えられているが、埋蔵金探しだったのではないかという噂が付きまとう。主要な遺跡には、二本松藩主の宝物探しの影がちらつく。
もう1人は、名誉欲が先走ってしまった藤村氏だ。縄文遺跡についての記録を確認していると、旧石器時代への意欲が記載されていることがある。原瀬遺跡での彼の実績の影響と思われる。
高橋丑太郎氏の仕事の多くは、大玉村史に紹介されている。
その高橋丑太郎氏が遺跡を紹介する文章の中にも、古老の話として二本松藩主の宝捜しが登場する。
地蔵堂古墳群は、開発の進む地区にあって、現在でも比較的よく残されている遺跡だが、この古墳群のうち、金山古墳と天王檀古墳を紹介した文章の中に、二本松藩主の宝捜しが登場する。
金山古墳の出土品の状況は以下のようだという。
付近から土師器と弥生式土器片があり、周囲からは、沢山の埴輪円筒片があって、その中に珍しい朝顔形の埴輪円筒や家型埴輪の一部が見つかっている。墳丘の西側は一部崩されて畑となっているが、その崩れた処に、沢山の灰と炭があり、弥生式土器片や石器などが発見された。
その出土品は、古老の言として、明治戊辰役の際、官軍により古墳内の宝物が堀とられたとか、藩政時代二本松藩主の宝探しに会い沢山の宝物が持ち去られたとされているとしている。
天王檀古墳についての出土品としては、次のように紹介する。
周囲には、沢山の埴輪円筒が出土しており、殊にすぐ南下の国分氏宅の庭先には、ガラガラ円筒片が散っている。この塚も二本松藩主の宝探しに会い、沢山の宝物が持っていかれたと古老の言である。出土品は埴輪類と石製模造品で付近から出土し、当時の人々の住居跡がこの付近と、ここから西方名郷崎、赤坂方面までと、北谷地、小次郎内、二子塚方面へ分布して、炉跡や土師器類が沢山出土している。
盗掘の言い訳なら、出土品は散乱してしまったのだろうし、事実なら二本松藩主の宝物の中にあることになる。