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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大和に服従した頃

 安達太良山麓辺りの地域が、いつから大和国家の支配に服従しはじめたのかという事については、地域の文献が存在するわけではない。日本歴史全体から関係ある部分を切り取って推測ということになるようだ。
 何をどう切り取るかということが、それぞれの見方の表れということになる。大和朝廷とのかかわりについて、地域にかかわる資料はどう切り取っているかを確かめてみる。

 「大玉村史」は、以下のように説明する。
 「国造本紀」によれば、成務天皇のとき(4世紀初期頃)に、東北の地に、次の諸国が置かれた。阿尺国(安積・安達)思国(諸説あるが坦理か)伊具国(相馬・宇多・行方)信夫国(信夫・伊達・安達)白河国(東白河・西白河・石川・田村)石背国(岩瀬・石川)石城国(石城双葉・磐城菊田・楢葉磐前)
 それぞれの地に豪族が国造として任命されたのである。
 この地方は阿尺国に属し、阿尺国造には、阿岐閂国造祖点湯津彦命十世孫比止祢が任命されたとある。国造は一国の首長で土地を支配すると伴に、部民をも支配した。
国造の下に稲置という地方官があり、皇室に属する屯倉を管理した。県には県主が置かれ、邑には村主があり支配の組織が出来てきた。

 信夫の里の歴史のガイドである「ふくしまの歴史」ダイジェスト版では、「天皇の家来信夫国造」という項を起こして、以下のような説明の仕方をしている。これを「天皇の家来阿尺国造」と置き換えて比較する。この頃は、まだ安達はない。

 まず、倭王の武(雄略天皇)が、478年に中国の宗に送った手紙の内容を紹介している。
私の祖先は、自ら甲冑を身につけ、山川をかけめぐり、東の毛人(大和国に従わない人々)55国、西は熊蘇66国、海を渡って朝鮮の95国を平定した。

 そして、この手紙にある東国の数と、静岡・長野・福井県より東の国造の数とが一致していることから、この頃に、福島県辺りも国造の任命が行われ、支配服従の関係になったとみている。その上で、本県とかかわる部分を以下のように切り取っている。
 「国造本紀」によると、大和勢力の及んだ北限の土地に任命されたのは、10人で、伊具(宮城県伊具郡)思(亘理郡)阿尺(郡山)染羽(双葉郡)信夫(福島)白河の初代国造が、安岐の国造と同じ祖先であるとされます。

 白河の初代国造だけは、天降天由都彦命11世(あめふるあめのゆつひこみこと)〈安岐の国造の祖〉と実名を記して別格扱いにしていることで、このグループのリーダーだったことを強調している。
 そして、この白河国造の墓が、6世紀後半に造られた全長71.8㍍というこの時代の東北地方最大級古墳である白河市舟田の下総塚古墳らしいと説明する。

 「大玉村史」の記載より詳しいのは、国造りの役目の部分だ。村史で掲げた支配と経営の他、国魂神を祭ることと、朝廷に労働力と物資を納めることを付け加えている。その代わりに、朝廷からクニの支配を認められ、武器や宝器などを与えられたとした。 
「大玉村史」とずれているのは、時代の特定だ。村史が4世紀初期頃としているのに対して5~6世紀初め頃としている。ただ、この位のずれは、誤差の範囲とは思う。
 切り取りの微妙な変化は、地域のこだわりかたの違いである。しかし、それだけでなく、福島県の古代の捉え方の変化も影響しているように思う。特に、会津の大塚山古墳の発掘調査の影響を受けた白河地域あたりや郡山の大安場古墳などの中通り地域の発掘調査の成果が反映されているように感じる。

 「大和に服従した頃」というのは、蝦夷としての誇りを失う頃、または、打算的な生活の仕方を覚え始めた頃とも言い換えられる。 
by shingen1948 | 2008-02-15 04:27 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)