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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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傾城壇古墳②~古いという価値

 知らないことについて調べていくと、意識していなかったが、情報にふれる順序は、新しい情報からになるようだ。
 「大玉村史」で古墳についての情報を確かめると、古墳についての考えが変化していることが分かる。特に、傾城壇古墳の価値観について、最近大きく変化していたのだなということを感じた。
 「大玉村史」は、昭和51年発行だ。ここで傾城壇古墳が記述されている箇所を確認することで、この頃の傾城壇古墳の評価を推定してみる。
 古墳時代は、第二章「原始・古代・中世」の第二節「村の古墳時代と豪族」で述べられる。その中で、古墳の価値について以下のような記載がある。
 現在、この村において保存すべき古墳は、二子塚の前方後円墳で、昭和46年、村条例で村文化財に指定、第一号から第二号・第三号までの蝦夷穴古墳及び大山東の古墳があげられる。玉井地区の方墳等も保存すべきものであると考えられる。
(中略)
 わが村での大古墳は、代表的な前方後円墳の二子塚古墳であり、大山字愛宕にある傾城坦である。二子塚古墳の付近は……。

 二子塚の記載が続く。ここで大山東の古墳といっているのは「温石古墳」を指していると思われる。
 縄文時代から弥生時代に時代が変遷する概観的な変遷を説明する中で、傾城壇古墳について以下のように触れているところもある。
 中央貴族が高塚古墳を作るように、地方豪族も大山地区の集落を眼下に見下ろす高地のところに、例えば傾城坦(愛宕・岩高)のように副葬品もあまり無いが、地形状からすると、一種の偉容をほこるものがあるので、小国家の首長として、地方を支配した特権階級であった人々の墳墓と推察される。

 傾城壇古墳について、東北の古墳の中でも、最も古い時代の古墳かもしれないという意義はまだ見極められていないことが分かる。この付加価値は、平成10年(1998)に県の文化財に指定されたあたりに認知されたようだ。

 村史ができる頃は、村にある二つの前方後円墳のうち、二子塚古墳の関心が高かったようだ。
 この村史ができる少し前、二子塚古墳が、高速道路建設地にかかる可能性があって、マスコミ報道に取り上げられることが多かったこともあるかもしれない。
 逆に、傾城壇古墳が注目されなかったのは、古さゆえかもしれない。古さは、いかに地味かということでもあるからだ。棺が古い木棺なら、古さゆえ朽ちてしまうということでもある。華やかな出土品の少ない古墳ゆえに、古いという価値なのだという認知と結びつくというのは難しそうだ。
 立地条件も違う。二子塚が村内平地であるのに対して、傾城壇古墳は山頂にあって愛着度も違う。二子塚古墳の方が、保存の動きが早かったのは、そういったことも影響しているのかもしれないとも思う。

ここ大玉村の古墳の価値観に変化をもたらしたのは、大玉村の発掘調査の成果ということではなさそうだ。郡山の大安場古墳発見という劇的なできごとが、波及的に影響を与えたようだ。
 最も現代から遠い存在である埋蔵文化という分野が、時代や周りの変化と関わり合っているということが面白い。郡山は大安場古墳を再現して公園にしてしまおうと動いているという。大安場古墳からの影響は、今後も続きそうだ。
by shingen1948 | 2008-02-09 11:58 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)