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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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豊かな郷土への誇りと未来への勇気を裏切る大和

 東北は、権力を持とうとする人々にとっては、勢力拡大のチャンスがある場所であり、東北に住む人々にとっては、権力闘争の被害者であるという歴史は、古代から繰り返されているようだ。もう一つ、権力を持とうとする人々にとっては、はむかう者へ豊さを象徴する東北が自分のものであるという証を示すことができるという構図も変わらない。
自然の恵みの中で生きてきた者にとっては、生活を脅かす犯罪者にある日突然出会ってしまう。そして、時間がたつと、いつの間にか犯罪者の論理によって、自分達が悪者になっているということだ。
 その原点の一つとして、今回のアテルイを中心とした蝦夷と大和の戦いに関する整理が必要に思えた。その上で、大和の勢力拡大の変遷についての整理をしていくことが必要になる。付随して、各時代の大和と蝦夷の対立図の整理が必要になっていくように思う。

 鈴木氏が講演された中に、大和が歴史的な大敗をした胆沢(巣伏村)の戦いについて、地元の史学家の描いた地図をもとに、具体的に戦いを説明されていた部分がある。ここが、特に実感を持ってたところだ。

 789年征夷大使紀古左見の5万2800余人の大和軍は、北上川沿いにある巣伏村の戦いで大敗する。
 大和軍の戦略は、大軍を3軍に分けて、巣伏村で合流するというものだったという。これは、軍隊が川沿いに縦長にならざるを得ない地形とのかかわりで、大軍を前進させることに関わっているようだ。巣伏村までくれば、これから先は広々とした平野になるので、ここで合流して行こうということのようだ。
 前軍1000はそのまま西岸を北上し、巣伏近くまできてから北上川を横切る。中軍2000と後軍2000は、川を横切ってから、川の東岸の道を蝦夷軍を破りながら巣伏村へ向かった。
 これを、蝦夷軍は巣伏村で正面800と背後400で挟み討ちにしてしまう。官軍は大軍とはいえ、縦長に伸びている隊列ではなすすべもない。戻るにも大軍が前進しているのでままならず、川を渡ろうとすると重い防具がじゃまになる。生きのびたものは、防具を脱いで川を渡ったものだったという。ともかく大和軍は大敗する。
 2回目は、794年で、遠征軍10万人という空前の大軍で、征夷大将軍は大伴弟麻呂で副将軍が坂上田村麻呂だ。戦場は描かれていないが、10万の兵士が戦いを展開できるのは、胆沢平野と考えられているようだ。
これらの事から、公民も国家財政も、どちら側も疲弊し切っていることが分かり、第三回の征討の時に、アテルイと田村麻呂の和議の意味が理解できる。
 しかし、この戦いの結末は大和が約束を破ってアテルイ等を切ってしまう。この悲劇に結びつく合理的理由は無い。桓武天皇が、プライドを傷つけられたという私憤でしかないということが分かる。
 歴史上は、桓武天皇の命で田村麻呂が征服したことになっているが、実際はアテルイ等蝦夷と田村麻呂が広い大きな視野に立って和睦の約束をしたということのようだ。そして、朝廷がプライドを傷つけられたという私憤で、その約束を反故にして、無抵抗の蝦夷を切り捨てたというのが真実のように思える。
 東北征討の結末が、田村麻呂にとっても一生の痛恨事だったようだということが分かると、散歩人にとっては地域が別の見え方になる。
by shingen1948 | 2008-01-30 04:25 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)