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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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弥生時代の大玉村を確かめる

 今まで読んだ報告書等から弥生時代の部分を取り出して並べて、イメージを整理する。
 
 「大玉村水利事業史」では、弥生時代の住居遺跡にかかわって、この地域の稲作に着目している。
 村の概要で、あとで詳しく述べるが、弥生時代には村においても稲作が開始されていたことが、大山地区の下高野遺跡出土の籾痕のある弥生土器と破橋遺跡発見の胎土に多量の籾殻痕があったこと、髙橋丑太郎氏が調査した諸田遺跡の炭化米などからわかる。弥生時代の稲作は、低湿地に小区画の水田を造り、木製農具を中心に耕作し、収穫は石包丁で穂を摘んでいたといわれる。

 「髙橋丑太郎氏が調査した諸田遺跡の炭化米などからわかる。」と記述された遺跡が、「幻の大山諸田遺跡」に書いた遺跡である。
 他の弥生時代の遺跡として挙げられた遺跡は、隣り合った位置にある。
 プラント5のあたりが玉貫遺跡で、その直ぐ西隣が破橋遺跡、更に西隣が下高野遺跡ということだから、簡単にいえば、プラント5から西側の高速道路あたりまでの広い範囲が、弥生時代の代表的な遺跡ということだ。その中でも、破橋遺跡が、弥生時代遺跡の代表して述べられることが多い。ただ、報告書の中には、破橋遺跡と下高野遺跡を同一遺跡と考えているようなふしもある。

 大玉村ホームページの傾城壇古墳の説明には、次のような記載がある。
 大山地区に諸田(もろた)や破橋(こわれはし)遺跡など弥生時代の集落が集中している事から、当時の水田地帯は、この地区の低湿地部分に限定されていた可能性が高い。

 「上ノ台遺跡発掘調査報告」では、「破橋遺跡」について、その序章で以下のようにふれている。
 弥生時代の大玉村を代表する遺跡に、諸田遺跡、破橋遺跡がある。この遺跡から出土した土器には、弥生時代終末の北関東地方に広く分布する十王台式土器と類似する文様が認められ、「福島県史Ⅰ」では「大山式土器」として紹介されている。

 十王台式土器という土器というのは、確かめてみると後期弥生土器の標準型のようだ。
 十王というのは、伊師浜海岸と十王駅の間にある地区名で、そこには十王台遺跡というものがあるとのことだ。ここからは、縄文・弥生時代後期の石器や土器が多数出土しているという。
 静岡の登呂遺跡時代と並んで、十王台式土器というのは、北関東地方の後期弥生土器の標準型となっているとのことだ。器種は、壷・甕形土器および坏・高坏などがあり、器形上から壷と甕の区別が困難なものが多いという特徴があるそうだ。文様は、櫛描文を主体とするという。                                       〔茨城県立歴史館編 1991〕より
 「下舘跡発掘調査報告書」では、その「第二節 周辺の遺跡」で、「破橋遺跡」について以下のようにふれている。
 弥生時代の遺跡は、当村東部の大山地区の扇状地上に存在する傾向がみられる。本遺跡の500m程東に所在する下高野遺跡からは、後期と考えられる遺構・遺物が確認された。

 壊橋遺跡については、古墳時代の遺跡ともされている。弥生時代の遺跡に重なって発掘されたのだろうと想像する。
 報告書に紹介されることは少ないが、馬喰内遺跡も弥生遺跡のようだ。
大玉村のホームページでは、十楽院のカヤの紹介文で、以下のようにふれている。
 本院のある馬喰内一帯は、弥生式土師器時代の遺跡であり、隣接地大畑とその北200メートルの所にも古代の寺跡があり、布目瓦など出土するのをみても、この寺院も創立は非常に古いものと思われる。

 まとめてみると、次のようなことになるようだ。
 東西には国道4号線沿いのプラント5から高速道路の範囲にかけて、南側には、馬喰内あたりまでの広い範囲に、弥生に生活した人々は、確かな足跡を残している。そして、この間にある破橋・上高野・住吉あたりには、弥生人が残したこれらの足跡の上に、古墳時代の人々も生活の足跡を重ねていった。
 弥生時代から古墳時代に掛けて、この辺りには確かに古代人が稲作を中心にして生活していたという足跡を残していったということになるようだ。
by shingen1948 | 2008-01-19 05:42 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)