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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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幻の「大山諸田遺跡」

「大玉村水利事業史」には、諸田遺跡として、古墳ではなく、弥生時代、土師時代の遺跡としての「大山諸田遺跡」について記載されている。しかし、「上ノ台遺跡発掘調査」・「下館跡発掘調査」・「前山1号発掘調査」報告書の各報告書には周辺の遺跡として紹介されてはいない。
 この遺跡は、地域在住の発掘調査の資格を持つ方が調査をしたものだが、学問的な体裁を整えられなかったという。そのために、各種報告書には載っていないと考えられる。しかし、単なる散策を目的にするものにとっては、とても貴重な情報である。

 「大玉村水利事業史」は、発掘者の高橋氏の日記を忠実に記載することで、その辺の事情を浮き彫りにしている。地域に在住し、資料分析を得意とする編者でなければできない技であると感心する。
 体裁を整えられなかったのは、水田開発に伴う工事中に遺跡が出てきたもので、ブルトーザーが土を押しのけていく中で、途中開発をストップしてもらっては確認した事情によるもののようだ。何度か県にかけあって工事を中断して遺跡調査をするように働きかけたようだが、それがかなわなかったことが読み取れる。成果については、以下のようだったと読み取れる。

 多数の土器の出土品と共に、沢山の柱穴を発見したという。そして、発掘者も、「大玉村水利事業史」の編者も特記したかったのは、穀物貯蔵室らしい直径1.6㍍、深さ40㎝の円形落ち込みに炭化物がいっぱい真っ黒くなっていたものの発見だ。
 自分の知識ではよく分からないのだが、弥生時代に、米を貯蔵するということは珍しいことということのようなのだ。
 各マスコミで、弥生の焼き米の出土が取り上げられたということを、新聞写真を付して紹介している。出土品は、発掘者のもとにあるのだろうか。沢山の柱穴は、メモとしてどこかに保存されているのだろうか。

 さて、その位置だが、「大玉村水利事業史」に述べられてることを参考に推定しておく。
 この出だしの部分は、諸田遺跡の時と同じ引用部分であり、その部分の中略は、位置特定の明確化のため、省略させていただいた。他は原文のままである。また、ここで調査日の「昨年」としているのは、昭和41年のことである。
 諸田部落の南約250㍍、線路の東150㍍の地に、田圃に囲まれた約30㌃の畑があり、俗に仲島と呼ばれ、(中略)珍重されていた地である。昨年11月29日、この畑が開田されて沢山の弥生の遺跡遺物と土師器片が出土した。

 この仲島という位置を住宅地図で確かめると、中島というところがあり、諏訪山と庚申壇古墳のある「竹花の丘」との中間点あたりのようだ。
 地域を知る活動の熱いものが伝わるが、今のところ、まだ確実なイメージはない。 
by shingen1948 | 2008-01-17 04:09 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)