地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大塚山の棺桶の蓋

先に大塚山を訪ねた時に、棺桶の蓋が気になっていろいろ想像して、「8月の忘れ物②:棺桶の蓋を見て」として書いたが、その棺桶の蓋に関する経緯が少し分った。
 この時代の見方考え方についての知識がないので簡単そうな本で確かめていたのだが、ある人から「福島県立博物館紀要第11号」を頂いた。その中の論文の一つにこのことに触れているものがあったのだ。「会津大塚山古墳 南棺と北棺」(藤原妃敏・菊地芳朗)と題する論文の中に、「石佛古墳」という項立てをして、その現況を述べた後、以下のように述べている部分があった。
 古くから露出していた石棺材が橋に転用され、のちに軍隊によって大塚山に運びあげられたという。ほかに遺物などは報告されていない。この棺材は当初、大塚山古墳後円部墳頂に石碑のように立てられており、その台座も現存するが、いつのころか倒れ二つに折れてしまっている。

 注には、石田明夫氏のご教示によるとある。

 この石棺の部品だが、この大塚山古墳のものではなく、近くの石佛古墳のものであるとのことだ。
 従って、次に「大塚山の山頂:前方後円墳の円墳部の興味」で書いた、大塚山の埋葬施設に木棺が二つあったこととの矛盾はなく、自分としてはすっきりした。しかし、学術的にはそうもいかないらしい。
 この石佛古墳の築造年代の特定によって、一箕古墳群に加えられるかどうかが問題になってくるという。そのことは、古代時代前期前半から中期中ごろまで1世紀以上に渡って大型古墳を築きえた東日本では数少ない首長墓系譜と想定される南棺の男性の後継者が北棺の男性と判断できるかどうかという問題に関係するらしい。

 この石棺材を棺桶の蓋と決めつけていたが、棺の蓋とみるか、部材とみるかで、年代が変わってしまうらしい。しかも、どちらと考えても形状や大きさに問題が残ってまうとのことだ。
 散歩の途中に立ち寄る者には計り知ることのできない奥深さがあるようだ。
by shingen1948 | 2008-01-03 06:16 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)