「高玉城」へ
2007年 12月 24日
磐梯熱海から母成に向かう県道を左折して北上する。途中、旧道が左に分かれる道がある。そちらを進むと、高玉山常円寺の案内板がある。そこを左折すると直ぐにその寺はある。
伊達政宗の会津攻めに先立ち高玉城も攻められ落城するのだが、その時の六代城主常頼公の墓所がこの曹洞宗常円寺の境内にあるとのことだ。
この寺に入る前の旧道は新道に合流できないで、行き止まりになっている。それで、そのまま寺の脇の細い道を進む。分りずらいが、人家の間に登山道が見えた。ここから山に進めば、高玉城に出ることを確かめて、そのまま進む。朽ちた高玉城への案内板がある広場があって、母成峠への道と合流した。ここに車を置いて登ってみようとも思ったが、雨が降っていたので躊躇してしまった。
高玉城は、応永元年(1394)に源義家の子孫源兼五世の孫顕実石筵冠者太郎左衛門尉が、城を築いたという。
天文元年(1532)に二本松藩畠山氏の支城として古くから高玉を領した高玉氏が、この山の地形を利用してさらに堅固な城にしたとのことだ。
天文20年(1551)に常頼の父である五代目伊守頼継が、高玉、石筵、横川を治めるようになり、そして、悲劇の時を迎える。天正17年5月5日(1589)6代城主高玉太郎左衛門常頼の時に、伊達政宗の会津芦名攻めに先立ち、高玉城も攻められた。城主と共に全員討死し落城し、築城以来195年余で閉城したという。
伊達軍はその1ヶ月後に摺上原で葦名氏を倒し念願の会津を手に入れることになる。
この城が落ちる前日には、伊達政宗は、安子ヶ島城を1日で攻め落としている。本宮に戻る途中、安子ヶ島の案内板をみたが、次の機会にしようと思った。
この城は、1300年のはじめごろ、東氏の一族阿子嶋氏によって築かれたとのことだ。葦名氏の支配下にいた阿子嶋氏の所領が、街道の要所だたことが、高玉氏と同様に悲劇だったといえる。