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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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郡山台を訪ねて③<白河の郡衙跡とかかわるニュースから>

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 最近、安達郡の郡衙跡の郡山台を訪ねたところだったが、「福島民報」に、白河の郡衙跡と係わる寺院の発掘調査についての記事をみつけた。
 記事によると、県指定史跡借宿廃寺跡でこれまで見つかっている塔跡や金堂跡の北側に講堂跡と見られる基礎工事の遺構を11日までに確認したとのことだ。このことから、格式の高い法隆寺式伽藍配置の寺院である裏付けが強まったとのことだ。
 借宿廃寺を含む白河郡衙関連遺跡では、平成17年に下総塚古墳などの「白河舟田・本沼遺跡郡」が国の史跡指定になっているが、ここも追加申請したいとのことだ。

 安達郡の郡衙跡を訪ねてみたものの、この時代の散策の楽しみ方がまだ分らない。この白河郡衙関連遺跡はその解明が進んでいるようで、そのヒントになりそうなことが多そうだ。
借宿廃寺を含む白河郡衙関連遺跡について、「歴史民俗資料館常設展示白河の歴史と文化」のページの「4古墳時代ー地域の王から地方長官へ(前編)」「5奈良・平安時代ー地域の王から地方長官へ(後編)」が、知りたいことと係わっている。

 楽しみ方の確かめという観点から、当時の状況を次のように読み取る。
 8世紀に入ると、古墳の時代は終わるのだが、この時代は、地方の時代であり、まだ独自の権威と活力を保っていたと考えられる。国造たちは、大和王権の権威を背景にはしているが、地域においては、土地と人民を把握する存在だった。
 しかし、国造が、郡に編成替えされ、その上に国が設定されて、中央から国司がやってくる。そうなると、地方豪族の権力は一気に萎えていく。当然、国ごとに国家権力の中核をなす軍事機構は整備され、軍団が設置されたであろう。

 地方の時代から、中央権力に管理されていく様子を捉えるのに、古墳との関連を考慮していけば、そこが具体的になっていくということのようだと読み取る。古墳は、当時の権力者を知る手がかりか秘められているからだ。

 この視点から、安達郡衙とこの近所の村のかかわりについて、「大玉村水利事業史」で確認する。
 「第二章近世以前の村と水利」の「第一節考古学からみた村のすがた」の「5 古墳時代の村」と「6 奈良平安時代の村」がその部分だ。
 安積郡から延喜6年(906)に安達郡が成立した時の、権威とのかねあいを以下のように推定している。
 安達郡衙の建物跡や瓦の古い物は平安時代初期にさかのぼることを理由に、安達郡成立以前にすでに公的施設があり、安達郡成立後に郡衙とされて整備されたものらしい。

 ここまでしか説明していないが、長者伝説の存在をも考え、焼き米の多量の出土などを考えれば、素人には、勝手に権力者の交代劇を想像しても許されるだろう。
 なお、この冊子で大玉村近辺の古墳との関わりで興味が湧くのは、古墳時代の後期にできた二子塚古墳は、現在の郡山から本宮地方にかけての地域を支配していた阿尺(あさか)国造の墓ではないかという説の紹介だ。結びつけて考えれば面白いが、短絡過ぎかもしれない。
 なお、4世紀の初めから半ばに掛けてのこの地域の古墳の中では、大玉の傾城壇古墳が大きいのだが、これは、中通り地方を郡山の大安場古墳の勢力と二分する勢力であったとの推定をしているようだ。

 このぐらいの確かめで、楽しく散歩をしたり、散策を楽しんだりすることができそうか試してみる。
by shingen1948 | 2007-12-15 05:04 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)