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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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慈徳寺に立ち寄る

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 先週、吾妻運動公園を通った機会に、慈徳寺に立ち寄った。
 来て見て、昔何度か来ている事を思い出した。その時は、歴史的な興味はなく、ここのしだれ桜を見に来ただけだった。


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 ここには、伊達輝宗公の首塚がある。先に「粟の巣の変事」の辺りを散策するとして書いた「粟ノ須の変事」の続きだ。その事変で討たれた伊達輝宗公を、ここで火葬にしたのだ。
  語られる物語は、輝宗公が刺殺され、義継公を銃撃するまでだ。しかし、現実の日常としては、その後がある。輝宗公の首をどうするか、父の遺体をどうするかということである。その刺殺された父の遺体をここまで運び、ここで荼毘にしたということだ。この後、骨を拾い骨壷に納め、そして、……と続く。
 そのことに関して、寺の案内板では以下のように説明している。

伊達輝宗公の首塚
 天正12年(1675)10月、政宗公18歳にて伊達氏17代米沢城主となる。翌13年(1676)4月、政宗公は安達郡小手森城籠城の大内一族を「撫で斬りにする」。二本松城主畠山 義継公は政宗公に和をこう。宮森城に在陣する父、輝宗のとりなしなり。義継公8日、御礼言上に宮森に参上。終わって玄関に送る輝宗公をいきなり捕らえ、家臣でとりまき 二本松へ引き上げを図る。突然のことなり。伊達の化しか、ただ後を追うのみ。阿武隈川高田の渡しに近い粟ノ須に至る。対岸は二本松なり。
 凶変を聞き政宗公、小浜城から駆けつける。この時、輝宗公「速やかに義継を撃て。父を顧みて家門の恥を晒すな」と叫ぶ。政宗公、断腸の思いで父の言葉に従う。輝宗公、義継公に刺殺される。義継公主従、伊達氏の銃撃に斃(たお)る。
輝宗公行年42歳。政宗公、父の遺体を信夫郡佐原村の寿徳寺(現在の慈徳寺)で火葬にす。導師は米沢の資福寺住持虎哉宗乙禅師、奠茶仏事師を寿徳寺 の二世昌室恵慶繁大和尚が勤む。
火葬跡に、もとは五輪塔であったと思われるが、現在は二輪塔のみ残る。宝珠に伊達氏 の略紋、『笹に雀』が刻まれている。古来人々、『首塚』と呼び伝えてきた供養塔なり。
平成13年6月吉日
宝珠山慈徳寺25世 祖峰一之 誌
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 ここの観音は、信達33観音の6番札所だ。4番は、大森円通寺の境内の中にあり、5番は大森城にあって、円通寺が、別当寺になっていたが、その次の札所がここだ。
by shingen1948 | 2007-12-13 04:29 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)