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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

郡山台を訪ねて②

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 郡衙跡を訪ねたことにかかわって、もう少し付け加えておきたい。それは、案内板にもあった当時の税金であった米が焼けた状態でたくさん発見されたことについてだ。
 「相生集」 にも長者伝説について触れているところがあるという。その内容は、「あだち野のむかし物語」http://www.db.fks.ed.jp/txt/10011.001/index.htmlにある物語であろうと想像する。
  この物語の紹介に付け加えて、以下の記述がある。

幕末の頃、二本松藩主丹羽長国公は「黄金千杯 米千杯 朝日さす夕日かがやく云云」の俗謡を耳にして杉田村の農民多数をつかって発掘をしたのでした。その結果は切り断ったところ目の高さに横一線に厚さ十センチメートル程の焼き米が多量に出土しそのほかは何もなかったとのことです。
  埋蔵金の可能性を探ったのであろうと想像される。

 郡衙跡と推定される条件は、地形や出土品と共に、伝承の物語の存在も大切な要素らしい。
 地形的には、丘陵や台地の末端であって清水があるとのことだ。土塁の名残りや方形の水溝、そして数多くの礎石が出土することも大切らしい。その他、土師器・須恵器・焼米・古瓦・墨書銘土器・古硯が出土することや郡衙にかかわる地名があるということ、更に、郡衙にからむ長者伝説の物語の存在も参考にするということだ。

 なお、郡山の安積郡の郡衙にかかわる長者伝説も虎丸長者で、以下のような物語の概要とのことだ。
 長者の大きな屋敷と米蔵があったが、八幡太郎に火の矢で攻められて亡びてしまったという。虎丸長者は、昔、上台から皿沼にかけて屋敷を構えていた大金持ちである。大きな屋形は瓦ぶきで、いろは四十八棟の米蔵があり、観音堂があって、鐘堂の釣鐘が鳴りわたり、力持に住んでいる使用人は米俵の出し入れに精出し、下男下女がたくさんいて米を研ぐ長者池や細沼は真っ白になり、下女は皿沼で食器を洗っていたという。



「虎丸長者と焼き米」(「あだち野のむかし物語」より) 昔八幡太郎義家という武将が後三年の役の際、奥州征伐に約八百の兵をつれて長者宮というところにさしかかったときです。夕刻ものすごい大雨になったので、義家は長者宮の豪族虎丸長者に一晩の宿を頼んだのですが、常に安倍に加担していた長者は義家の申し出を断わってしまいました。しかたなく東方の仮宿というところで一夜の宿をとりました。
 義家は、このままにしておいては危険人物であると思い、虎丸長者にいろいろ話をもちかけたのですが、聞き入れないので、怒った義家は仮宿というところから虎丸長者屋敷に向けて火矢を射掛けたのです。
 八丁四面の屋敷はたちまち火につつまれ七日七晩燃え続け長者の栄華の夢は破れ荒涼たる焼野の原と変わってしまったのです。
 そののち巷の間では焼け跡には「黄金千杯 米千杯 朝日さす夕日かがやく三つ葉うつ木の下にある。」などの俗謡が広まりました。
 幕末の頃、二本松藩主丹羽長国公は「黄金千杯 米千杯 朝日さす夕日かがやく云云」の俗謡を耳にして杉田村の農民多数をつかって発掘をしたのでした。その結果は切り断ったところ目の高さに横一線に厚さ十センチメートル程の焼き米が多量に出土し、そのほかは何もなかったとのことです。
 ただ延喜6年(906)に安積郡から分置された安達郡衙の跡であることが判明したということです。
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by shingen1948 | 2007-12-12 04:21 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)