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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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信夫山と伊達氏③:「寂光寺跡」の②「羽黒神社」

  寂光寺跡の説明板の以下の記述が気になっていた。
信夫山を慕う一部の者は再び戻って復興したが、もはや以前の勢力はなくなり、その権限は福島の真浄院に移された。この真浄院との対立は明治まで続けられ、大裁判の結果、寂光院の土地は官有地となり、寺そのものは、廃寺となった。

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その権限とは、羽黒神社とのかかわりであろうことは想像できる。また、明治まで続けられた対立の結末は、明治政府の神仏分離政策ともからまってくるだろう。
  半沢氏の信夫山フィールドワークには以下のメモがある。
明治初期は、国家新道政策が荒れ狂い、神仏分離が厳しく実施され、羽黒大権現は神社とされて六供の修験者たちは還俗し、農民となって姿を消し、仁王門や鐘楼が取り壊された。 また、本地仏のこもかぶり観音は清明町の真浄院に移されてしまった。
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 仁王門が取り壊されるのは、明治2年(1869)で、その理由は、神社の境内に仏堂があるのがいけないことなのだそうだ。神仏混淆が禁じられた影響だ。仁王様も明治14年の甚平衛火事で焼けてしまったとのことが、案内板にあった。更に、わらじ奉納は、元々はこの仁王門に納められたのが始まりだと記載されている。口惜しさと神仏分離政策によってもたらされた人々の思いを踏みにじったことへの怒りを感じ取れる。

  羽黒神社の別当についてのかかわりが想像できそうな二つの記述をみつけた。
  その一つは、「仙台市まち資料データベース」だ。
 羽黒神社
 福島県旧信夫郡(現在の福島市)にあったものを、政宗の仙台築城とともに慶長七年(一六〇二)、現在地に神体を移し、北山付近の鎮守としてまつられた。【出展:仙臺 博学の道 さんぽ】

  もう一つは、「三山暁参り」の羽黒神社の説明だ。
羽黒神社
古くは羽黒権現と称し、第32代嵯峨天皇の詔によって「淳中太尊石比売命」の2柱を祀ったと言われる。第29代欽明天皇は、次子淳太敷尊を後継に、皇后は、長子淳中太尊を後継に兵を挙げたが、天皇方に敗れ東奥に下って、信夫山に住まわれたと伝えられる。信夫山の羽山に二つの塚があり、湯殿山、月山は、皇后と尊2柱の御陵といい尊信するようになった。羽黒神社の祭神は女性であり、正観音と伝えられるがそのご神体は晴明町の真浄院に安置されている。この観世音菩薩は、その扉を閉ざし、見る者は目がつぶれると言われ容易に見ることはできないが、何十年かに一度開帳するといわれている。 

なお、真浄院の案内板では、以下のように説明している。
 伊達郡霊山村に弘法大師によって創建された遍照寺がその前身であり、慶長年間(1596年~1615年)に伊達政宗が同地に再建。その後、上杉藩が後身として現在地に建立した。福島市有形文化財となっている「金剛・胎蔵両界曼荼羅」一対、羽黒山正観世音菩薩などが寺宝となっている。

寂光寺も真浄院も、伊達政宗とのかかわりで、羽黒神社の別当寺となり得ることが分かる。
伊達政宗が、寂光寺の人々を引き連れて仙台に移るときに、神社の祭神を仙台と真浄院に分祀したことも想像できる。少なくとも、残された羽黒大権現を寂光寺にかわって真浄院が世話していたことは想像できる。
by shingen1948 | 2007-12-01 07:06 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)