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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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信夫山と伊達氏③:「寂光寺跡」

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薬王堂で鐘を撞き、余韻の長い鐘の響きを楽しんだ後、急な坂道を下って、また羽黒神社の旧参道に戻った。御神坂ともいうらしい。


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羽黒神社の鳥居の前で一休みして、また坂道を登ると、六供集落に続いていく。


羽黒神社へ登る右手に、坂道があって案内板が建っている。それによると、かってこの地には、羽黒権現院別当寺があったとのことだ。
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 「応永20年(1413)大仏城(のちの福島城)に籠った伊達持宗と呼応て関東管領派遣の大軍を相手に戦った時には、青葉閣の掛田定勝とともに、持宗を応援したほどの勢力を持っていたとのことだ。また、「松川の合戦」の時には、撤退する伊達政宗に従って仙台に移ったという。


 信夫山を慕う一部の者は再びこの地に戻ったということだが、ここまでの登り口にあった家々に住む六供集落の人々のご先祖であろうか。
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途中で、羽黒山社人「元山伏加藤籐右ェ門大学邸」という道標が建っていたので、写真を撮った。通りかかったおばあさんに、「よーく撮ってね、俺んちだから」と声を掛けられた。ご先祖様に誇りをお持ちであることがよく分かる。





「寂光寺跡」案内板説明内容

史跡 「寂光寺跡」
かってこの地には、羽黒権現院別当寺(真言宗)があった。そこには多くの修験者(山伏)がいて修行しており、15世紀初めの大仏城(福島城)の合戦には伊達持宗を応援したほどの勢力を持っていた。また、別当座主は、会津塔寺八幡の遷宮式に招かれて導師を勤めるなどの格式もあったのである。
 東北の関ヶ原といわれた松川の合戦には、伊達政宗に従って仙台に移った。信夫山を慕う一部の者は再び戻って復興したが、もはや以前の勢力はなくなり、その権限は福島の真浄院に移された。
 この真浄院との対立は明治まで続けられ、大裁判の結果、寂光院の土地は官有地となり、寺そのものは、廃寺となった。
福島信夫ライオンズクラブ
by shingen1948 | 2007-11-29 05:43 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)